ボルヘスのわたし―詩でも小説でもなく―

伝奇集 (岩波文庫)

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不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)


ボルヘス論としてはかなりいい加減だけど、考える要素は結構あると思う。少なくとも僕とボルヘスの関係についてはうそを言ってない。

1.はじめに                                     
 私はボルヘスが書く「小説」を読むことができない。読み通すことに時間がかかる、とか生理的に受け付けないとかそういうことではない。それはどのような読めなさかといえば、一行を読んで、あるいはそれを読み終わる前に、それまでの記述をほとんど忘却してしまうというというきわめて不可解なものだ。それは、ある場所から出発して目的地までひたすら直線の道のりを歩いていて、道に迷ってしまうような体験であるといってもよいかもしれない。また、海馬の損傷によって長期記憶の機能が損なわれてしまった生とも類比的であろう。ボルヘス自身もまた、覚えられないがゆえに長編小説は読まない、といっているようだが。この「ボルヘス的」ともいえる不可解な読書体験の原因への探究心をひとつの力としつつ、いくつかの短編を、また、それらについての文章を読みながら気がついたのは、彼の「小説」は一般的な小説とは明らかに異なり、それはほとんど詩の領域にあること、しかしそれは詩そのものでは決してないということであった。
 それでは、小説と詩との差異とはいかなるものか。そしてボルヘスの「小説」は両者間のどのような位置にあるのだろうか。

2.小説/詩/迷宮
 文章を歩行に擬してみると、センテンスの一つ一つはその一歩一歩(みぎ・ひだり・みぎ・ひだり)。読者にテーマの方向性を示唆する曲がり角。しばし思考を要請する信号待ち。ストーリーの盛り上がりとその着地は上り坂下り坂。さまざまなリズムがありそれらは細かな差異を生む。つまり過去、現在、未来と時間をリニアにおし進めていく。しかし、それだけでは小説にはならないようだ。つまりそれは単なる散歩=散文に過ぎない。ここで二人の小説家(古井由吉高橋源一郎)のことばを引用する。

どんな行き方であれ、作品の出発点と着地点の間のどこかで境を越える。それが小説だ、とわたしは思っている。境を越えるというのは差異を渡った、その跡を記す、ということになるでしょうか。(古井 p.152)

一番重要なのは、その作品を通過することによって、読者がその作品に入る前に比べて、一つ経験値が増えることです。それが可能なのは、読者が作品のなかで、その作品の構造に沿って自然に物を考えることができるようになるからです。簡単に言ってしまえば、小説は認識の芸術です。作者のトレースした言葉の運動によって読者の方に、ある一つの認識が起こってくる。そういう構造になっています。ですから、入り口と出口があるものが小説なんです。(高橋 2003 p.189)

 小説には決定的な、もはや「リズム」には還元できない変調、越境、跳躍がある。それが小説を小説たらしめるもの、というわけだ。それでは詩とは何か。

詩のいちばん目立つ特徴を忘れていた。
改行するということだ。
(中略)
詩人たちは(おそらく)、ことばをつむぎながら、角々で曲がれ、といっているのである。
(中略)
なぜ、詩人たちは、ことばを追いかけながら、そんなに、しょっちゅう、角を曲がるのか。
それは、どこを歩いて、どこへ行こうとしているのかを、確認するためだ。
それから、いつも(ことばの角を)曲がってばかりいるから、必然的に、ことばに用心深くなるからだ。
さらにいうと、曲がってばかりいると、いったいどこを歩いているかわからなくなるので、そのとき歩いている道をしっかり確かめながら歩くようになるからだ。(高橋 2007 p.220-221)

 高橋はここで「改行」を「曲がること」に喩えている。それには納得がいくのだが、引用の後半、なぜ曲がるのかについての説明には不十分さを覚える。これでは、曲がらない=改行しない詩には当てはめることができないし、ただ改行してあるばかりの詩もどきの文章と詩の違いもわからない。私は改行=曲がるという作業の本質に、断絶による連続という機能があるのではないか、と考えるのだが、このことはわたしがボルヘスの「小説」に感じた違和感に関連する。引用しよう。

あれはたしか二年前のことだったが、ガノンがグアレグアイチュから手紙をくれて(その手紙は失くしてしまった)、ラルフ・ウォルドゥ・エマソンの「過去」という詩の、おそらくは最初のスペイン語による翻訳を送ろうとして言ってよこし、追伸に、わたしも多少思い出のあるドン・ペドロ・ダミアンが、数日前に肺充血で亡くなったと言いそえてあった。(ボルヘス 1996 p.103 )

 一見全く「詩的」なところのない文章かもしれない。たしかに読みにくいが、それは聞きなれぬ固有名詞の連続によるものに過ぎないのではないか、と。しかし柳瀬尚紀はここに複雑な入れ子構造を読み取る。

手紙を受け取ったという過去、それを紛失したという過去、ダミアンが死んだという過去、エマソンの詩「過去」、その(未完の)翻訳である、すなわちもうひとつの「過去」――そしてさらに読者は手軽なアンソロジーには載っていないエマソンの「過去」なる詩の実在性をいぶかしがりながらも、「神々すら過去を揺り動かすことはできない」という行(ライン)を発見するかもしれない。(柳瀬 p.25-26)


 この入れ子構造こそ、私がボルヘスを読めない原因であり、それは、改行というひとつの切断によって、連続性を保持する作業を行わなかったために生じたものなのではないだろうか。上に引いた文章はその入れ子構造ゆえに、散文では通常ありえないほどに高密度な文章となっている。そしてこの構造が、柳瀬が引くベケットの「フィネガンズ・ウェイク」評、「ここでは形式が内容であり、内容が形式である」のように、ボルヘス作品の主要テーマとされる「無限」を生み出すのだ。

3.無限/私/永劫回帰
 この無限の入れ子構造は、円環に帰結する。しかしそれはフィクションという領域に自足しない。あらゆるテクストを、そしてあらゆる「私」をその一部として包含していく。ボルヘスを読む私、この文章を書く私はすでにボルヘスによって書かれてあるのだ。決して外部を形成することがないそれは、デカルトが想像した「悪霊」のような超越者の存在する余地すら残さない。そう、正確にいうならば、ボルヘス個人もまたわれわれの起源ではなく、この私と、それが〈私〉であることにおいて同列なのだ。この〈私〉とは人格=記述可能な性質の集積としての「私」でも、統覚的主体=無規定な世界に一つの表れをもたらす世界の集約点としての「私」でも、身体、あるいは心理・記憶の連続性によって同一性を保証される「私」でもない。それは常に今であり、どこにいてもここであるようにその外側を積極的に設定することの不能な、想定しようとすればすべて想像のうちに回収され、ただ夢、あるいは文学のような回路を通じてのみ移動することのできる私のことだ。しかしそのような移動もまた事後的にそれが私でなくなった後に把握されるのみで、外部のないことに代わりはない。ところが、ボルヘスは、まるでその回路が開きっぱなしになってしまったような感覚をわれわれにもたらす。そのことによってあらゆる他者は、その他者性を失い、世界は〈私〉に満たされてしまう。そしてそれは澁澤龍彦が「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を引きつつ、「あり得るはずがない」といった奇妙な独我論的感覚のことなのだ。

今日、トレーンの教会の一つは、プラトン主義にならって、これこれの苦痛、これこれの黄緑色、これこれの温度、これこれの音等々は存在する唯一つの実在であると主張している。全ての男は、交接の絶頂時において同一の男である。シェークスピアの一行を繰り返すすべての男は、ウィリアム・シェークスピアそのひとである。(ボルヘス 1993 p.40)

ここでボルヘス独我論が奇妙な反転を示していることに私たちは気づかざるを得ないだろう。彼は個人としてのアイデンティティーを認めないのであり、人格の独立を認めないのである。そもそも、そんな独我論がありうるだろうか。あり得るはずがないのだ。バークリーやヒュームから出発しながら、彼とは正反対の、一種晴朗な澄みきった諦念にみちた、ニーチェ風といえば言えなくもないような、奇妙な永劫回帰的世界にたどりついてしまったかのごとくである。(澁澤 p.35)

それはあくまで「永劫回帰的なもの」にすぎない。それもまた積極的に主張されれば、田島正樹の言うように別のものになってしまうだろう。(「もしニーチェの回帰思想が、真理についての一般論を説くものであったとしたら、この思想自身は回帰の欄外に立つものとなってしまうだろう」 田島 p.215)結局のところ、われわれがボルヘスを通じて体験するものが何なのかはわからない。しかしこれだけは言えるかもしれない。「私」の外側に現実そのものがあるとして、その現実に到達することの不可能性は私にとって不幸ではない、と。ボルヘスの作品が決して陰鬱なものにならないのは、ボルヘスがその不可能性を楽しんでいるからに他ならない。それはまさしくブランショの言うような意味で、われわれが「不死の人」であるということでもあるのだが。

想像的なものの本質であるこのうえない無際限性は、Kがいつか「城」へ至りつくことを阻むのであり、また、アキレスが亀に追いつくことを永久に阻むのだ。そしてまたおそらくは、生きた人間が、彼の死を全く人間的なものに、それゆえにまた不可視なものにするような地点で、おのれ自身に追いつくことを阻むのである。(ブランショ p.149-150)


参考文献

ブランショ,M 粟津則雄訳 『来るべき書物』 現代思潮社 1968年
ボルヘス,J.L. 鼓直訳 『伝奇集』  岩波書店 1993年
          土岐恒二訳『不死の人』 白水社 1996年
古井由吉 『すばる 2008年 2月号 (「書く生きる」)』 集英社 2008年
澁澤龍彦 『ボルヘスを読む』  国書刊行会 1980年
田島正樹 『ニーチェの遠近法』 青弓社 2003年
高橋源一郎 『すばる 2003年 5月号(「ボルヘスナボコフの間で」)』 集英社 2003年
       『文学界 2007年 11月号 (「ニッポンの小説」) 文芸春秋 2007年
柳瀬尚紀 『ノンセンソロギカ』 朝日出版社 1978年