「想像的なものの二つの解釈」におけるイメージの問題

文学空間

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ハンス・ベルティングによる論文「Image, Medium, Body」はW.J.T.・ミッチェルが著した『イコノロジー』における三幅対「イメージ・テクスト・イデオロギー」の後者二つを置き換えることから、彼が「テクスト」よりも根源的で普遍的であるとみなす「イメージ」についての学への導入を企図したものである。その試み自体興味深いものではあるのだが、ベルティングの議論についてここで詳述することはしない。その第八章「Iconic Presence」において、彼はイメージと不在の密接な関係について言及しているのだが、ここではそれをひとまず導入として用いるに留めることにする。引用しよう。

Images traditionally live from the body’s absence, which is either temporary (that is, spatial) or, in the case of death, final. This absence does not mean that images revoke absent bodies and make them return. Rather, they replace the body’s absence with a different kind of presence. Iconic presence still maintains a body’s absence and turns it into what must be called visible absence. (Belting, 312)

ここで指摘されていることを簡略化して述べるならば、イメージは身体の不在によって生じるものであり、そのままに保持された不在の身体が可視的な不在として現前すること、これがイメージ特有の現前、Iconic presenceということであろう。注意すべきなのは、ベルティングは不在を可視性との関連で考えていることである。すなわち、イメージの発生の場において、逆説的な事態が引き起こされるのはあくまで可視性の様態であって、不在であるところの身体それ自身は決定的な変化を被らないということだ。
このベルティングのイメージの捉え方は、モーリス・ブランショによる「想像的なものの二つの解釈」に従ってそのうち一方の解釈の側と対応させることができる。

イマージュは客体の後にくる。イマージュは客体の後続なのだ。われわれは見る、次いでわれわれは想像する。客体の後にイマージュは来るであろう。この「後に」は、事物が再把握されるためには一先ずそれは遠ざからねばならぬということを意味する。ただしこの遠ざかりは、一個の動体の単なる場所の移動ではない。動体はその時なおも同じものに留まるだろう。遠ざかりはここでは事物の核心にある。事物はそこにあった、われわれはそれを一つの理解という行為の生きた運動の中で捉える、(Blanchot,347=ブランショ,363)


 「遠ざかり」とはまさに不在化のことではないか。「見る」こととイメージすることの連関。ブランショが強調しているように、「後に」とは単なる時間的前後関係ではない。つまり、客体を実際に見た後でなければ、イメージすることができない、などというわけではない。この「後に」は「遠ざかり」として、「不在の身体」として、イメージに含まれているものなのだ。
また、ブランショは古典主義芸術もこの側の解釈に対応するものとして、「この芸術は類似を一顧の容貌に、イマージュを一個の肉体に帰せしめることを以て、類似を再び合体せしめることを以て誇りとする。イマージュは生気を吹き込む否定とな」る、と書いている。この個所はベルティングがイメージにとってのアニメーションとの本質的な関連について論じていることと結び付けることができるだろう(Belting,306-307)。
だが、ブランショにとって重要なのはむしろもう一方の解釈である。この解釈はほとんど強烈なまでに先のものと対立する。

イマージュとは一体何であろう。何ものもない時、イマージュはそこにその条件を見出す、だがそこで消え去るのだ。イマージュは中性を、世界の消滅を求め、何ものもそこではっきりと現れることのない無関心な底部にあらゆるものが立ち帰ることを希い、空虚の中にもなお存続するものの内奥を目指す。それがイマージュの真理なのだ。(Blanchot,345=ブランショ,361)

試論の冒頭におかれた以上の文章は、一読では理解しがたい謎めいた文章ですらある。だが、これはブランショが「遺骸的類似」と呼ぶ事態について論じ始める時に、明らかになり始める。
 遺骸的類似とは、要約してしまえば「それ自身への類似」のことであろう。つまり、もはや類似は似るべき対象をもたない。類似を可能にするその基体は不在そのものなのだ。しかしながら、それが類似として、イメージとして現象する以上は場を持たざるをえない。そこでそれは自身の上に生じざるをえないのだが、このときイメージは、同一性も、それを基盤とした差異も、さらにはオリジナルとコピーの一義的な関係も不可能になるような、「誰か」、つまり非人称の領域として開かれることになる。
これこそまさに「遺骸的」な事態なのだ。遺骸はもはや何ものかとして同定することができない。事物としては「ここ」にありながら、それはどこにもない。同時にその「どこでもない」場所が「ここ」なのだ。イメージはこのような場所と関連する。不在と現前、消失と生成が同時的で不可分な場所、あるいは非‐場所に。だがここでは何ものも意味を持たない。「イマージュの真理」とは逆説的な表現なのだ。むしろそれは真理と対立する。起源や終末も含めた、超越的な、あるいは高次の一つのもののもとに築かれうるあらゆるヒエラルキックな構造を否定する。ブランショは芸術を、真理との関係において定義されるものとは別の位相をもつものとして開示する。そこに現れるのはすべて「イマージュに身を委ねたもの」、「どれでもいいものとなった唯一のもの」なのだ。

一つの出来事をイマージュのうちに生きること、それは出来事についてひとつのイマージュを持つことでも、その出来事に想像的なものの無償性を与えることでもない。出来事は、この場合、本当に起こる。しかしながら「本当に」起こるのだろうか?(Blanchot,357=ブランショ、374)

この引用における最後の疑問文はいったいいかなる疑問なのだろうか。この後に続けてブランショは起こるもの(これは「出来事」の完全な言い換えとは言い切れないことに注意しよう)が「我々をその起こるものから、我々を我々から剥奪し、我々を外部に引きとどめ、この外部を「わたくし(je)」が「自ら(se)」を再認することのないひとつの現前へと変える。無限の段階を含む運動だ(Blanchot,357=ブランショ,374)」と述べている。つまり、その「起こるもの」は「我々に」起こるとはもはや言えないのである。そうだとすれば、そこでは決して「われわれ」という一人称複数は発語しえないはずだ。にもかかわらず、われわれはそのことに言及することができる。これは奇妙な事態ではないだろうか。ここに一見して「遺骸的類似」の側にイメージの本質を置くブランショの立場が、実際はそうではなく、あくまでもイメージは「二つの解釈」によって成立していることを問題にしているのだ、ということが明確化する。しかしながら、この「二つの解釈」の不可分さを「曖昧さ」としてブランショは提示するものの、それは「遺骸的」なものの方へほとんど還元されているように見えかねない。つまり、単にイメージを前にするのでなくそれに巻き込まれ、それを生きるという事態、われわれ自身がイメージとして非人称化する事態を、なぜわれわれが語り、理解できるのか、ということについては説明がなされてはいないのではないか。確かにブランショは「生あるすべての人間は、実際にはまだ類似なしにある(Blanchot,351=ブランショ,368)」とも述べている。だが、われわれは書くことによって、むしろそのことによってのみ死にうるのではなかっただろうか。そもそも、彼がイメージの問題を提起したのは書くことにおける孤独、すなわち彼が「本質的孤独」と呼ぶ事態においてであり、「想像的なものの二つの解釈」はその補遺として書かれたものであった。ならば、イメージは書くことと呼応していることに疑問はなく、そのことに立ち返らねばならない。
本質的孤独は遺骸的類似とほぼ同一の表現によって描かれている。たとえば、本質的孤独においては「『今ここ』が、『どこにもない』の中に崩れ去ったが、『どこにもない』が『今ここ』であり、そして、死んだ時間が、ひとつの現実的時間である。」と同時に、「私が孤独である時、私は孤独ではなく、この現在のうちにあって、既に、私は、「誰か」(Quel qu’ un)というかたちで、私に立戻っている。誰かが、そこに存在し、そこで、私は孤独なのだ」、というように(Blanchot,23-24=ブランショ,24)。そして、このような孤独において与えられるものこそ、イメージなのである(Blanchot,25=ブランショ,26)。
しかしなぜ、書くことによってこのような事態が引き起こされるのであろうか。書くこと、それは極めて素朴かつ単純に考えるならば、われわれの手(身体)によって、文字(媒体)が記されることである。さらに素朴さを継続させるならば、文字の配列によって形作られる語と、さらにそれから成る文、メタファー、物語がそれらを読むわれわれにイメージを喚起させる。漢字のような表意文字は言うまでもなく、アルファベットのような表音文字であってもおかれるコンテクストに従って、それ自体イメージでありうる。だが、ブランショを読んだわれわれにとってはもはや、書くこととイメージとの関係はこのようなものだけではない。両者の間には単に外在的で派生的なものではない、言い換えれば、イメージを書くのでも、書かれたものがイメージを生むのでもない、より本質的な関係がそこには見出されうるのだ。
ブランショは書くことに関しては「作品」、「書物」、「言語」との関連の中でその特異な事態について語っていく。ではイメージについてはどうか。「本質的孤独」においては、「視覚(見ること)」、「距離」、「接触」などがキーワードとしてあげられるだろうが、書くこととの間には断絶がある。これを埋めなければ、書くこととイメージとの関係はいまだ恣意的なものに留まりかねない。しかしそれはいかにしてなされうるだろうか。後者の語彙に注目してみたとき、それが身体的なものであることに気がつく。対して、前者がそれから切り離されてあることにも。おそらくここで、冒頭で批判するために引用してしまったようなベルティングの三幅対、「Image, Medium, Body」が補助線として、また彼が強調した「可視性」の概念も有効に機能するのではないだろうか。もちろんそれぞれの語の定義を再度、大幅に考察し直す必要は避けられないとしても。
また、「二つの解釈」のうちの前者を問題にしていく作業は、われわれは常に「誰か」という純粋な非人称の領域で生きているわけではないのだから、両者は不可分である以上、できうる限り推し進められねばならないものである。その臨界点で、もう一方の解釈を要請せざるを得ない矛盾がおそらくは生じるのであろう。
この二つの解釈が必然的であるということ。このことこそイメージが、われわれを変わることのない同一の者に留めることなく、また差異の無際限な連続に溺れさせることなしに、常に新たな生へと向かわせる、その可能性としての力そのものであることの証明ではないだろうか。もちろん、これはまだ具体性に欠けた素描にすぎない。しかし、なにか確信に似たものは間違いなく私のうちにある。それが作品として結実するのがいつになるかはわからないのだが。


参考文献(翻訳は引用の際適宜変更した)
Maurice Blanchot, “L’éspace litteraire”, Gallimard, 1955
ブランショ,M 粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』現代思潮社 1962年
―――――― 田中淳一ほか訳 『白日の狂気』朝日出版社 1985年
Hans Belting 「Image, Medium, Body: A New Approach to Iconology」2003年