金原ひとみ『ハイドラ』―わたしたちが求めるもの―

ハイドラ

ハイドラ


1.はじめに 内面の声と小説
たとえばあなたが物思いにふけるとき、あるいは漫画を、小説を、週刊誌を、そしてこの文章を読んでいるとき、声が聞こえてはいないだろうか。身体の、感覚を司るどのような器官によっても把握されないにも拘らず、確かに声として認識されているもの。その、いわば人間の内面を象徴するものとしての声は実際に空気を震わす同名のものと同じだろうか。それを確かめる術などないはずだが、自らの内側で呟かれた言葉を口を開いて発音したとき、テープレコーダー等の録音機器によって聞かされた自分の声に感じる違和感は通常ない。
小説はその誕生以来内面の声を記述してきた。小説という言語表現とそれは全く不可分の関係にあるといってよいだろう。主に一人称で語られる小説の場合、現実のわれわれと同じように、声の響く空間が内と外、二種類ある。地の文と呼ばれるものが前者、鍵括弧でくくられることの多い会話文が後者にあたる。そして小説の場合もまた、両者間の移行に違和感は生じない。


2.語りの無場所性/無時間性
2007年1月、『新潮』に発表された金原ひとみ『ハイドラ』は、その点特異な小説である。つまり、語りの内と外の関係に意識を向けられざるをえない。それではその内と外とは何か。外は先に述べたように会話文である。すると問題にしなければならないのは内であることに疑問はない。
小説において、語りはその小説を輪郭付けるものすなわち外延であり、語りを担うものは、それが人称的であろうと非人称的であろうと、その外延に位置している。小説をひとつの虚構「世界」とみなすならば、語りこそがその世界の限界である。世界にはフィジカルな形などないが、仮にそれを円形であるとしよう。そのとき、円周の、たとえば鉛筆で書いたときに生じる黒い線の幅はその面積に含まれないように、小説世界の外延もまたそこに場所を持たない。これを語りの無場所性と呼ぼう。
ここでひとつの逆転が起こっていることに気がつくだろう。小説においては、内面が外部を包含しているのだ。
ひとつ例を挙げよう。

「あの空き缶。外に置いてあるの。何のために置いてあるんですか」
と訊いてきたのだけれど、ぼくは正直に答えても何かおもしろくないような気がして、
「おまじない」
と答えてみた。そうするとよう子が今度は、
「何のおまじないなんですか」
と当たり前の調子で訊き返してきたから一瞬返答につまってしまったのだけれど、スニーカーを履く時間だけ考えて、
「見えないものとのコミュニケーション」
と、嘘でも本当でもないようなことを言って会社に出掛けた。
保坂和志 『プレーンソング』 p.61)

この小説もまた『ハイドラ』とは別の意味で語りと会話の関係が興味深いものなのだが、ここでは詳述しない。この引用中で注目してほしいのは、せりふの後に書かれた、「と訊いてきた」、「と答えてみた」、「と訊き返してきた」、「と言って」という箇所だ。これは、せりふの鍵括弧をさらにくくるものとして機能している。そしてそう語る「ぼく」ではなく、「ぼくは」と語る語り手は文中に存在しない。そして先に述べたように、「存在しない」ことによって小説を輪郭付けているのだ。
ここで指摘しなければならない重要な点がもうひとつある。それは、語りには場所がないのみならず時間もないと言うことだ。
ここで誤解してはいけないのは、語りは時間を描写しているが、つまり時間を流してはいるが、そこ、語りの位置に時間は流れていないということだ。引用文を例とすれば、「一瞬返答につまってしまったのだけれど、スニーカーを履く時間だけ考えて、」が時間の描写に当たる。時間は場所に基づいた行為・動きによって描かれるのだ。しかしそう語られているそのときはそこにはない。つまり、語りに「今」は存在しない。
ところが、『ハイドラ』においてはそうではない。


3.私たちが求めるもの
考察に入る前に、作品の紹介を簡単にしておこう。主人公の早希は新崎というカメラマンの専属モデルであり、かつ居を共にする恋人でもある。しかし二人の関係は異様なものだ。決して頻繁ではないセックスのときにしか触れ合うことはないし、ほとんど会話もない。そして、新崎が彼女を通して撮ろうとしているものは、「人が人の要素を失っていく過程なのだ」。それゆえに彼は彼女に内面の表出、特に表情を否定させる。彼女は新崎の欲望に応えるように摂食障害の一症状である、「噛み吐き」を繰り返す。
『ハイドラ』において描写される「噛み吐き」は以下のようなものだ。

温まったお弁当を開けると、蓋をすぐ脇において箸を割った。ハンバーグとご飯を一緒に口に入れる。じわりと湧き出した唾液が、顎の上下運動によって肉とご飯と交じり合う。口の中でそれが完全に元の形を失うと、隣の蓋に吐き出した。延々この繰り返し。機械のように、私は噛み吐きを繰り返す。顎ががくがくして、唾液が出なくなって、口の中がからからになっても、食べ物を口に入れて出してを繰り返す。蓋が唾液と食べ物でいっぱいになると、ビニール袋に放り込む。コンビニ袋には、吐瀉物のような元食べ物が溜まっていく。
金原ひとみ 『ハイドラ』 p.32)

タイトルの『ハイドラ』はギリシア神話に登場する、九つの首を持つ怪物、そして同じ名を持つ刺胞動物ヒドラ科が由来である。生物としてのヒドラは、かつてイソギンチャクと同じ腔腸動物に属していた。腔腸動物の消化器官は開口部が一箇所、つまり口と肛門が一緒という単純な構造を持つ。それゆえに噛み吐きをする身体を連想させずにはおかない。そして彼女自身自らを怪物とみなすのだ。(以上 斎藤の記述を参考 斎藤 p.252-253)
彼女と新崎の関係、ハイドラの特異性を示す材料として一部引用する。

「もしかして、新崎さんにそれ以上痩せろとか命令されてんの?」
「そんなこと言うわけないでしょ。人を奴隷みたいに言わないでよ」
「だって早希、新崎さんが自殺しろって言ったら、しそうだもん」
 笑いながら、残酷なことを言うやつだ。あながち間違いとはいえないから、するかもね、と言って肩をすくめて見せた。常に私は、彼の意に沿った意思しか持たない。彼がやめろと言ったらなんでもやめる。やれと言われれば全てやる。彼の望みがそのまま私になる。いつか付き合っていた男に言われたことがある。自分の出した要求すべてに答えて、どんどんもとの姿を失っていくようで怖い、と。そしてその後彼は何かを思い出したように「擬態する昆虫」と呟いたのを覚えている。
 目の前に並んだ料理をそれぞれ一口ずつ食べると、後は飲むほうに徹した。モデルは大変だねー、と言う美月の言葉にはきっと、嫌味と同情が入り混じっている。
「まあでも、蘭ちゃんよりましだよ」
「蘭ちゃん?別にやせてないじゃん」
「あの子、過食嘔吐だから。食べた後がんがん強い酒飲んで、それで吐いてんだって」
「……そうなの?」
「うん。痛々しいよねー。早希は吐いたりしないの?」
「私は、最初からそんなに食べないから」
「心配しないの?彼」
「しない。彼は自己責任、の人だから」
「早希には最悪の組み合わせだね」
苦笑しながら、その苦笑が苦笑ともいえないほど歪んでいることに気づいて、無表情を作り込む。顔を上げて、細長いシャンパングラスからまたシャンパンを一口飲んで、窓際の席を見つめる。テーブル席についたカップルが、隣り合わせに座っている。見えないけれど、彼らはきっとテーブルの下で手を握っているんだろう。私は、付き合い始めてから三年、新崎さんとテーブル席で隣り合ったことは一度もない。羨ましい、みっともない。両方が湧き上がる。でも、みっともないの方は、新崎さんがそう思っているから、私もそう思わなくてはならないと、刷り込まれた結果の感情だ。
(金原 p.29-30)

これはわれわれの現実の体験に似通っている。われわれは会話の最中、「うわのそら」になること、頭の中の思念に注意が向き、他者の声ではっと目が覚めたようになることが、また逆に、他者の声が響く空間から奥まった場所に退いて、声が遠くから聞こえるようになることがあるだろう。そのとき、私の内側の声を聞いている最中にも時間は流れているのだ。私=語り手にそこで時間が流れているということはつまり、彼女が存在している、すなわち小説の外延ではないということだ。そのことによって、彼女自身が会話文に参入するとき、彼女は自己を他者と同水準の外部=世界の内部へ投げ出さなければならない。そしてその間、語り手という特権的な私の座は空虚となる。それは、早希が「私は」と、その語りの現在においては語らないことによって生じる。(引用文中のそれは、時制的に一般化されている)「私は」と語るとき必然的に付随する、決して名指すことのできない、超越的な「そう語るもの」の水準がそこにはなく、それゆえに語りをやめることによって、私もまた消失するからだ。
では、何がそれを可能にしているのか。早希=私が小説の語り手であるにもかかわらずその外延足り得ないのは、つまり早希が語りの現在において「私は」と発語できないのは、彼女の外延が彼女自身ではないからだ。その外延とはもちろん新崎のことである。つまり彼女にとって世界とは新崎なのだ。「私は」と発語する特権は新崎にあるのだ。そしてそのことは、彼女のコミュニケーション障害として表現される。それはもちろん、彼女の「噛み吐き」に他ならない。これをコミュニケーション障害と呼んだのは、それが内/外の関係の異常だからだ。入り口と出口が同じということはそこに内側も外側もなくなってしまっていることと等置される。それゆえに早希は、世界に対するリアリティを喪失していた。しかしその世界感覚は、パンクバンドのボーカル、松木によって変革される。
早希が松木に初めて出会うのは、彼らのライブの観客としてだ。そこで、彼女は彼と繋がる。

次の瞬間ギターが始まって、それに続くようにしてベースとドラムも始まった。まためちゃくちゃに、人々が動き出す。メロディーからサビに入ったとたん、いっせいに観客の手が挙がる。無数に挙がった手の隙間から見えたボーカルは、神みたいだった。無数に伸ばされた手と、彼の心臓が、赤い糸で繋がっているようだった。繋がりたい。その一心で、私も両手を挙げた。思った。救いはない。でも繋がっているということだけが、曲を通して伝わった。(金原 p.41)

松木は新崎と全く真逆の存在だ。彼は彼女に表出を要求する。新崎が否定する当のものを。

テーブルの下で、私の右手を握ったまま離そうとしない松木さんをじっと見つめたまま、握られている手を振ってみると、首を傾げて何?とでも言いたげな顔をする。そのとぼけた顔に、弱々しい笑みがこぼれた。
「今のかわいい」
「なに?」
「今の困った感じの顔かわいい。もっかいやって」
「出来ないよ」
「何でー。ちょーかわいかったんだって。もっかい」
「出来ないよ、そんなの」
「あ、その顔その顔。かわいい」
(金原 p.56-57)

早希は松木といる間、間違いなく幸せだった。決して自身が制御することの出来ない感情に触れようとする彼は、外部への通路だった。一度は新崎のところを抜け出して松木の部屋で暮らした。ところが、彼女は戻った。確かな、諦念にも似た決意と、わずかに捨てきれぬ松木への希望を携えて。

分かっているもう二度と、私は松木さんの元に戻れない。でもちょっとした何かが、たとえば時計の秒針が左に回り始めたり、灰皿の中から蟻が一匹出てきたり、いや、例えば私のデスクに置いてある依頼書か何かであろう一枚のプリントが、エアコンの風によってはらりと床に落ちたり、そういうひょんなことが起こったとしたら今すぐ立ち上がって松木さんのマンションへ駆け出すだろうと分かっていた。
(金原 p.134)

そのとき初めて、新崎がわれわれの前に声と身体を持って現れる。このことは、早希が新崎とそれぞれ別の「私」として対峙しようとする試みでもある。彼女はまなざしによって、新崎との間に通路を開こうとさえする。「すでにカメラを向けている新崎さんの、レンズの向こう側にある瞳が焼けてしまえばいいと、目からビームを出そうと必死に見つめる。」(金原 p.135)

この間、早希は、松木が夢を語り、それを聞いていた幸福な過去を想起する。しかし、それは新崎の一声によって中断される。

「笑うな」
 その瞬間。私の微笑みが消えて、私は思う。新崎さんは、今こうしてこの写真を撮るために、松木さんを私に与えたんじゃないか。新崎さんは、私がこのメゾネットタイプのマンションへ必ず舞い戻ってくると、知っていたんじゃないか。本当は、全てが、新崎さんの思い通りになったんじゃないだろうか。
「いいね」
 ぱしゃぱしゃという、シャッター音が速度を増し、楽しげに響き渡る。男が体勢を変えてカメラを構え直す。腰元に入っていた力が抜けて、がくんと姿勢が悪くなったのが分かった。そのときエアコンがぶいんと大きな音を立て、ひときわ大きな風がデスクの上の紙を揺らす。
(金原 p.136-137)

小説はここで終わる。もし、このあと紙がテーブルから床に落ちたとしても、彼女は駆け出したりはしないだろう。もはや松木も、新崎という世界に包摂されてしまったのだから。彼女の、そしてわれわれの求めるものが、自由でも幸福でもないとしたらそれはいったい何なのか。『ハイドラ』はかくも困難な問いをわれわれに突きつけるのだ。

参考文献

保坂和志 『プレーンソング』 中公文庫 2000年
金原ひとみ 『ハイドラ』 集英社 2007年
斎藤環 「腔腸動物メタボリズム」 『文学界 2007年 7月号』 文芸春秋