ラテンアメリカ文学・短編三編

「ぼく」とはなにか―コルタサル山椒魚」―

 単純に人間が別の動物になってしまうお話ならば、そこには特別興味を引くものはない。しかし、この『山椒魚』には古典的な哲学的問いが生々しく表現されている。
 その問いというのは、「ぼく」とは何か、といっても文法上の人称、あるいはアイデンティティについての議論に還元しきれないものであり、それを正確に言い換えるならば、「ぼく」と語るそれはいったいなんなのかという問題だ。
 物語を語る途上の山椒魚たる「ぼく」は、かつて人間として水槽の中の生き物を眺めていた「ぼく」と心理・記憶的に連続している。「ぼく」の同一性を保障するのはまさしくそれであり、語りのなかで、回想された過去の体験の主体を同じく「ぼく」と呼称できる根拠でもある。小説の大半部は、異なる時点の「ぼく」の間の往還と、山椒魚の描写、そして奇妙かつ空虚なそれに飲み込まれてしまいそうな感覚が描かれる。それだけでも十分スリリングなのだが、語りが山椒魚に「ぼく」がなったところまでたどり着くと、はるかに異様な事態に気づかされる。それは、山椒魚を水槽の外から眺めていた「ぼく」が山椒魚になった後にも、人間としての「ぼく」の身体を持ち、「ぼく」を眺め続ける誰かが存在するということだ。
 確証を得ることはできないが、もし彼が、「ぼく」が山椒魚になるまでの記憶を持ち、その連続が断たれていないとすれば、「ぼく」の語りを保障していたはずの心理・記憶の連続性は信用を失う。そこで「山椒魚」の読者たる私は気づかされる。水槽の向こう側などに行かなくとも、そのような信用はどこまでも疑いえることに。そして、にもかかわらず疑っている何か、「私」と語る何かは常に存在することに。


死者の死―キローガ「彼方で」―

 死という未知=彼岸への恐怖は、それについて語ることをその解消策としてしばしば要求する。それが解消策として機能するのは、決して既知にならないそれを「未知のもの」としてパッケージングしてその未知性を隠蔽することが言葉にはできるからだろう。しかし、少なくともこの「彼方で」はそのような方法は採用していない。それほどキローガの死に対する恐怖は大きかったと見るべきかもしれない。例えば、前半頻発する「死」。
 「私は死ぬことを決心したからです」「死ぬ方がましだわ、そう、一緒に死ぬのよ」「すぐに私たちは 死ぬんだわ!」
 これらの死はパッケージングされた死に他ならない。なぜなら彼らはその死後、死者として生きつづけているからだ。ところが、語り手と恋人の二人の死が描かれた後両者は気づく。いまだ死んでなどいないということに。「知ってるくせに!私、死ぬのよ!……」という叫びは、死がいわば二重化されていることによって、新鮮な恐怖を感じさせる。そして最後に語り手は気を失ってしまうのだが、ここではそのことと死がほとんど等価である。
 死に限らず言葉は未知を既知に飲み込もうとする。しかし、それがなされたとき言葉はある意味で死んでしまうのかもしれない。小説は言葉の死から逃れるためにもほかならぬ言葉によって書き続けられねばならない。


作品と読者をつなぐ地平―ボルヘス「アル・ムターシムを求めて」―

小説は常に唐突に始まる。
「フランシスコの足音がコツコツと廊下に響き…」「ぼくはいつもパウリーナを愛していた。…」「私は絶望していました。…」
しかし、これらの唐突さは私を置き去りにはしない。私とその始まりは「小説」という約束を前提としてつながっているからだ。ところがボルヘスが書くいくつかの作品、例えばこの「アル・ムターシムを求めて」はどこまでも私を後方に取り残し、決して追いつくことができない。私はボルヘスという書き手がそれが一見、実在の批評文であるかのような小説を書くということを知っている。それにもかかわらず、その文章は私との間に小説という約束を取り結ぶことがない。それは単純に私が彼の作品を読むための力がないせいなのかもしれない。そうだとすれば、作品と私の共通の足場のようなものを、ボルヘスの作品においてもまた設定できるということになる。しかし、これはあくまでも仮説の域を出ないが、ボルヘスが目指したのは暗黙のうちに交わされている約束を破棄し、唐突にどころか何歩も先の場所から小説を始めてみることではなかったか。果たしてそのような試みが意味することはなんなのか。そしてボルヘスの場所から見える世界はどのようなものなのか。私がこれから彼の作品を読む動機はそのような疑問であるだろう。