『来るべき共同体のために』

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

はじめに

われわれの生はかけがえのないものであり、あまねく命は尊いものである。それはわれわれにとってひとつの真理として流通している考えである。人類史上最悪とされる、人間が人間に対して行った行為、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人虐殺は、その「真理」を徹底的に損なうものであるがゆえに否定されるのだ。
「かけがえのなさ」が真理であるとすれば、それは普遍的かつ一般的に適用可能な価値であるはずである。しかし、それはその語が意味するものと完全に矛盾しないだろうか。誰もが等しくかけがえないのであれば、それはもはや「かえがきく」のではないか。
おそらく、われわれはその矛盾の超克のために常にそれと意識されないような仕方で例外を生み出してきた。同時に「かけがえのなさ」の普遍化に伴い、つまりもはや例外を新たに作り出しにくくなるがゆえに、例外者は可視化されるようになってきた。そこで、理性を絶対善とした、その普遍化の運動としての来るべき人類史の構想は、普遍化が同時に要請する例外者を考慮したうえで、もう一度問い直される必要が生じた。
そのような問いを正面から引き受けた哲学者のうちの一人に、ジャン=リュック・ナンシーと、ジョルジョ・アガンベンがいる。前者は生の「かけがえのなさ」を「かけがえのない」ままに、普遍性と両立させるものとして「共同体」を再考する。後者は、「かけがえのなさ」の根拠としての「人権」概念を批判し、それとは別の仕方で「かけがえのなさ」を成立させようとしている。彼らの試みは果たして成功しているのだろうか。それぞれ簡単にではあるが、みていこう。 


1.ナンシー『無為の共同体
ナンシーはその著書において、共同体はこれまで思考されてこなかった、と述べる。共同体の名で指され、思考の対象とされてきたものは、キリスト教的な合一・融合を前提とするものであり、われわれの生・死を作品化した上で、タイトルとして「かけがえのなさ」のラベルを貼り付けるものであったのだ。つまり、そのような「共同体」においては、その内部の存在は「かけがえのなさ」を保証されるが、外部の存在はそうではないのだ。また、共同体によって保証されたそれは、共同体の危機においてはその維持のため「作品化」され、その結末を強要されてしまう。それに対し、ナンシーが思考の対象ではなく、そうなるべきものですらない、と述べながら、言葉を費やす「共同体」は、本質的に「無為の共同体」である。その成立は「他者の死」とコミュニケーションを根拠としている。両者は生・死の作品化を拒否する「分有」という事態を顕在化させる。
分有とは、私有とも共有とも異なる。その対象は、一個の全体として捉えることのできぬものなのだ。例えば、ナンシーは次のように述べている。

私はこの他人の死――その限界はそれでも私を見返りなしに露呈するが――のなかでおのれを認識するのではないからだ。
とはいえ、ハイデガーはこの点では最も先まで進んでいる。

われわれは本来的な意味で他者の死を体験しはしない。いつもせいぜいのところ「立ち会って」いるだけである。〔…〕死は、それが「存在する」限りでは本質的につねに私のものなのである。

鏡仕掛けの装置(他者のうちに自己を再認〔承認〕するという装置、それは自己における他者の再認を、したがって主体の審級を前提している)は少なくともここで――あえて言うなら――一変させられている。つまり私は、他人の死のうちに再認しうるものはなにもない、ということを再認しているのだ。このようにしてはじめて分有――そして有限性が刻まれるのである。
(ナンシー,2001,60)


他者の死は私が決して私有できぬもの、共有できぬものとしてある。通常われわれは「他者のうちに自己を再認する」と考えるが、その自己は死によって永遠に把捉不能なものとなる。他者の死は究極的な事例だが、コミュニケーションにおいてもそれは同様である。コミュニケーションはシャノンが図式化したような一般的理解、発信者・メディア・受信者の三項関係によって成り立っているのではない。コミュニケーションにおいて私は露呈、外-立=実存する。そして私は他者に分有され、私はそれを読み取るのである。言い換えれば、コミュニケーションなしにわれわれは実存しない。すなわちわれわれはつねに共(に)出現するのだ。そしてこの事態においてのみ特異性もまた実存する。私の特異性は、私にとって他なるものとしてあるのである。


2.アガンベン『人権の彼方に』

 アガンベンはナンシーに反して、「かけがえのなさ」を、(少なくとも)直接的には追求しない。むしろ、それは例外を作り出すひとつの共同体=国家の生命、権力の源泉となるのみである、とされる。生の「かけがえのなさ」は、ある種の一般性である「形式」から切り離された「剥き出しの生」として現れる。だが、このような生が保護されるのは国家に従属する限りである。「剥き出しの生」がそれだけで共存することはできない。なぜならそれではホッブズ的闘争状態に陥ってしまうからだ。そこで、「剥き出しの生」の保証は、自然権の委託と引き換えである、人権によってなされることになる。
 人権はつねに例外を生じさせる。それは国民・市民でないもののすべて、たとえば、難民と呼ばれるものたちである。だが、難民=例外状態は、通常の意味において例外ではない。つまり、全国民・全市民は潜在的に難民なのである。なぜなら、国家はその危機、戦争状態を前提としており(軍事力の保持)、そこでその潜在性は一挙に顕在化するからだ。
 このような人権概念をアガンベンは批判する。そして、形式と剥き出しの生が分離不可能であるような〈生の形式〉の重要性を論ずるのだ。〈生の形式〉とはどのようなものか。アガンベンは次のように述べる。

この生においては、生きることのあらゆる様態、あらゆる行為あらゆる過程が、決してたんに事実なのではなく、何よりもまず常に生の可能性であり、何よりもまず常に潜勢力なのである。(…)それは、生きることそのものを常に作動させている。だから、人間――
潜勢力を持つ存在としての、つまり制作することも制作しないこともでき、成功することも失敗することも、自分を見失うことも見出すこともできる存在――は(…)生が幸福へと割り振られている唯一の存在なのである。
アガンベン,2000,12)

〈生の形式〉の構成は、思考によってなされる。思考とは潜勢力の経験である。アガンベンアリストテレスを引いている。

思考とは、その本性が潜勢力にあるような存在である。〔…〕思考が現勢力へと生成するとき、可知的なもののそれぞれは〔…〕やはりある仕方で潜勢力にとどまり、その時、可知的なものは自分自身を思考することができる。(アガンベン,2000,19)


潜勢力は「数多性」をもたらす。そしてこの〈生の形式〉として統一された「数多性」こそが、例外を生じさせない政治の主導概念へと生成するのである。


3.価値の消去『無能な者たちの共同体』

 ナンシーとアガンベンが述べていることは、表層的には相反しているようにも受け取ることができるが、共通に論じられていない重要な問題がある。その問題とは「価値」である。われわれが、あるものとあるものを比較し、またあるものを求めて闘争するのも、あるものが持つ価値ゆえである。
 価値は存在しない。しかし、それはわれわれの現実を深く規定している。それゆえ、共同体のあり方もまた、価値とは無関係ではありえないはずである。田崎英明は『無能な者たちの共同体』の中で次のように述べる。

問題は、新自由主義的で軍事的なグローバル資本主義が、いたるところで近代的な主体を消去している(物理的抹殺を含めた何重もの意味で)一方で、「価値」は消去されずに、ますます人々の行動の原因としての力を強めつつあるように思えることなのだ。そもそもマルクス主義的な革命の使命、より正確に言うなら、革命後の過渡期社会としての社会主義的社会の使命とは、資本主義的な物神性としての「価値」の消去を実現していくことであったはずだ。(…)ところが、現実に存在した社会主義は崩壊するか国家資本主義へと移行してしまった。革命、すなわち、「価値」の消去をあきらめた人々は、せめて「価値」のより平等な分配を求めて「主体」言説を何とか復興しリサイクルしようとする。
(田崎,2007,230−231)


近代的主体の消去は、「すでに起きたこと」よりも「起きそうなこと」の優先性に要請される。身体の水準で言えば、DNAの解析がそれにあたる。そこではもはや、「問題は『誰が何をしたのか』という形では立てられない」のだ。ナンシーとアガンベンはともに、近代的主体の概念の乗り越えを試み、その先で語っているようだ。それでは、田崎の二分法を用いるなら、彼らはそこで「価値の消去」を志向しているのだろうか、それとも「平等な分配」なのか。どちらかを選択するならばやはり、前者であろう。しかし、彼らが称揚する特異性や数多性の実現は、価値を消去できるのだろうか。そうでなければ、価値をめぐる争いは止むことなく、DNAにまで細分化・抽象化されたわれわれの生は、ますます権力への従属性を高めていくだろう。
田崎は、「政治とは無能な者たちの共同体ではないだろうか」と述べる。無能な者たちは欠如によって無能なのではない。完全であるがゆえになにものの手段にもなり得ないのだ。それは、「非感覚的なものの持つ永遠性でもなく、しかし、流れ去る瞬間ではないような『いま』」に生きるものたちである。非価値的なものへの志向、それをナンシーとアガンベンがともに抱いていることは疑い得ない。その実現のために、われわれはナンシーやアガンベンよりも「さらに先に進むよりほかはない」。

参考文献

アガンベン,G 高桑和巳訳『人権の彼方に』 2000年 以文社
田崎英明 『無能な者たちの共同体』 2007年 未来社
ナンシー,J=L 西谷修訳『無為の共同体』 2001年 以文社