感想みたいなのを書くということ

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

ゴットハルト鉄道 (講談社文芸文庫)

この本を読んだ感想、つまり、読んでいる間に感じたこと、考えたこと、細かな生理的・身体的な感覚を言葉にしたいと思う。言葉によって、そのなんだかよくわからないもの、あるいは「なんだかよくわからない」というそのこと自体をトレースしたいと思う。でもできない。そのための語彙が足りない、というよりは、うまく絵を描けないときのもどかしさに似ている。
そもそも、何故、小説を読む・読んでいる・読んだという体験を言葉にしたいなどと思うのか。それもよくわからない。
テクストである小説と読み手である僕の関係は、フッサールが言うところの「ノエマ」と「ノエシス」の関係にある。つまり、僕は僕として、「ゴットハルト鉄道」は「ゴットハルト鉄道」として、この世界で同一のものであり続けるけれど、僕に「ゴットハルト鉄道」がどのように現れるかは常に異なる。だから、僕は二度と同じ小説体験をすることが出来ない。その一回きりの体験は記憶という形をとり僕の中に残りはするのだが、それも少しずつ更新されていく。この文章を書いている、今このときも、もちろん例外ではない。
そのように、時間というファクターによって絶えず変容を強いられる小説体験を、出来うる限り原初の形に近い状態で保存しておきたいというのが、僕が「感想」を書きたいと思う理由なのではないだろうか。
以上の「理由」が納得の行くものだとしても、僕はそこからさらに問いを発することが出来る。
「それではなぜ、小説体験を保存しておきたいと思うのか」
その問いにはどう答えればいいだろう。一番単純なのは、「すばらしい体験だったから何度もそれを思い出して追体験したいから」というものだろうけど、少なくとも今回はそれではない。書きながら思いついたのは、
「僕らは常に、絶えず続いていく変容の過程の先端にいる。しかし、この先どうなるかはわからない。でも推測なら出来る。その推測の材料となりうるものが過去の変容の過程である。ところが、その過程は記憶という形でしか把握できないため、信頼できない。そこで、役に立つのが過去に書かれた言葉である。あらかじめ、言葉によって自己の外部に独立したテクストとして取り出しておけば、記憶ほどには大きな変容・改竄は起こらないだろう。」
書きはじめは悪くなかったんだけど。それに、書き記された言葉が、例えば僕のように、その本質をなにも表せていないようなものであったら、むしろ逆効果ではないか。それではこれはどうだろう。
「過去に書かれたものは、テクストとして自己から独立しているため、他者(他我?)として、現在の自己の読みを相対化する。」
なんかどんどんわからなくなるだけだからもうやめておこう。
一応「ゴットハルト鉄道」について。よくわからないけど、面白かったのは確か。もっと読みます。