脱臼した時間としての写真―古屋誠一小論

Aus den Fugen

Aus den Fugen

『Seiichi Furuya Mémoires 1995』


Tokyo 1992
頭上を覆い尽くす満開を通り過ぎた桜は花びらをその肌に滴らせ、細い枝の付け根近くに黒い鳥を留まらせている。


Vienna 1984
鳥たちは自らの羽ばたきによってその輪郭をぼやかしている。暗い灰色の背景に無数の黒。


Tateshina 1978
冷たく透き通って眼前を流れる川の水面は波立ち、対岸は白い河原で横たわる流木もまた白く、寒さに褪せた緑と裸木の林が奥へと広がり、さらに上方を見遣れば斜面のくぼみに雪をたたえ頂も白く霞む山々。


Izu 1978 (Christine Gössler)
てらてらと、糊のように陽光を照り返す海を背に、彼女は立っている。
髪はぴったりと頭に撫で付けられて、あらわになった大きな額の下には、はにかんだような、しかし満面の笑顔。
首からは銀塩フィルムの機械式カメラが下がり、ちょうどへそのあたりに収まっている。
黒いTシャツは角張った肩のラインと、対照的な胸のふくらみをはっきりと伝える。
灰色に近い水色のロングスカート、黒いタイツ、黒いゴム長靴。
直角に曲げられた右肘の先には竹の棒が握られて、斜めにコンクリートの岸に突き立てられている。


私は気付いていたのだろうか。この一枚の写真に、あるいはそこにうつる彼女の姿に魅了されたあの時から。白い首筋と右手首にひとつずつ、赤い傷跡が刻まれていることに。『明るい部屋』のロラン・バルトなら、「ストゥディウム」と呼んで見向きもしないであろうそれに。私は最初から惹かれていたのだろうか?無意識のうちに?

東京、Vienna、蓼科、伊豆、East Berlin、Bologna、Wurzenpass、Graz、Schattendorf、Hohenau、Gmünd、Rattersdorf、鶴見、Sachsenhausen、Leibnitz、Kapfenberg、Venice、Rostok、Spielfeld、Dresden。

ページを繰るたびに、私は写真の脇に記された様々な地名に出会う。しかし、西欧の歴史について、地理について、わずかな知識しか持ち合わせない私に、それらの大半はイメージをもたらさない。ドイツ語に関しても同様であるゆえ、音としてさえあいまいな響きを残すのみだ。
そのような、私にとっては疎遠な文字列と隣り合わせに 19xx と西暦を表す四つの数字が刻まれている。私はすでに知っている。ある年を境に数字の持つ意味が決定的に変わってしまうということを。それはしかし 1989 ではない。いくつもの窪みを穿たれた分厚い壁は、傾いた日差しに色付けられる集合住宅は、大人一人分ほどの大きさがある肖像写真を掲げたポールの林立は、彼の作品においては終ってしまった後の光景にすぎない。1985 彼女が永遠に世界から去ってしまった後の。
1985 以前、私はそこにしるしを読みとるだろう。やがて迎えることになる彼女の自殺という事実に収斂していくしるしを。およそ無関係な意図のもとに撮られた写真、例えば彼の state border の連作の一部にも。
1985 以後、私は空虚さを感じるだろう。彼女の死と関わりなく歴史はその物語を先へ先へと進め、息子の光明は鼻筋に彼女の面影を残しながら成長していく。しかし、それらは彼女の不在から逃れることが出来ない。


私は想像する。自室で幼い息子の世話をしながらTVニュースを眺めていて、ふと、昼食の準備をしていたはずの彼女が姿を消していることに気がついたときのこと、不安に駆られて部屋をとびだし、マンションの階段を息を切らして駆け上がりながら耳にした鈍い音のこと、最上階で見つけた彼女の靴、そして息子に対して、警察に対して、私が殺した、私が殺した、とつぶやき続ける彼のことを。


私は想像する。膨大な写真、膨大な彼女のポートレイトをひとつひとつ、手に取っては眺め、物思いに耽る彼の姿を。暗室の赤いライトに照らされて、彼女が現像液の中から浮かび上がる一瞬を。



彼は、彼女が精神病院から一時退院し、向かった旅先Veniceでの写真集『Last Trip to Venice 1985』(以下『Venice』)に付されたエッセイの末尾にこう書き付けている。
「はたして、そこに焙りだされた写真家とは、妻を死に追いやるために撮り続けた男なのだろうか」
だが、彼の懸念とは裏腹に、写真は写真家の物語に還元されることに抵抗する。確かに、彼女との出会いから別れまでを時系列に並べた『Christine Furuya Gössler Mémoires, 1978-1985』(以下『Christine』)は当然のことながら、『 Venice』、新しく撮られた写真と前2作と同じ写真を混交し並べ替えた『Seiichi Furuya Mémoires 1995』(以下『Mémoires 1995』)、『Aus den Fugen』の全てにおいて彼女の死のしるしは刻まれている。しかし、同時に、『Christine』ではそれぞれの写真が撮られた当時の状況を記したキャプションが付されているのだが、そのうちの決して少なくない数の写真について、彼は記憶にない、と書いており、その記述は写真が記憶とは異なったもの、記憶の外からやって来るものであることを教えてくれる。また、『Venice』冒頭におかれた数枚の写真は、旅行中のベニスと旅行後のベルリンの光景が二重写しになっている。彼によればこれは全くの誤りで二重露光してしまったものなのだが、重ね合わされて一体となった景色は、もはや想起すら自分の意図通りに行かなくなったような感覚を抱かせる。


映画は度々、その誕生が精神分析と重なる時期であったため、それ自体無意識を映すものとして言及されるが、写真にもまたそのような性質を見出すことは可能だろう。しかし、映画がスクリーンに投影された光線の反映を認識した結果であり、フィルムとフィルムの空隙は私たちが常に補填していることを考えれば、つまり、映画の認識による被構成性を考えれば、写真はむしろ物としての過剰さを持つものと捉えるべきではないか。


視覚は潜在的に触覚を含んでいる。眼に映る対象の位置する所まで身体を移動させるならば、それに触れることが出来るという可能性として。映画と写真はその触知可能性から切り離された可視性としてある。しかし映画の場合、音声が触覚に近似的なものとして作用し、時間がその絶対的遠さに逃げ去りという根拠を与える。さらにスクリーンは光によってその物質性を否定され、それゆえ私たちは映画館の暗闇の中でその表層に自らの身体を溶解させ、視覚対象の絶対的遠さを絶対的近さへと反転させることさえ可能なのだ。
しかし写真は音声をともなうことはほぼない。なぜならそこでは時間が流れないために両者は関係を結ぶことが出来ないからだ。そう、写真はいつまでもそこに留まり続けるためにその遠さは絶対的なままなのだ。そして私たちはその絶対的遠さと、イメージとしての近さとの間で引き裂かれることになるだろう。勿論、写真においてもシャッター速度を下げ、レンズを開放し、露出をオーバー気味にすることによってその表層を溶解させていくことは出来る。だが、それは写真自身の基底材としての物質からの逃避にすぎない。


写真の物性、記憶に対する、感覚に対する外部性は、それ自体としては表象不可能なものだ。ゆえに、それは表象とともにしか到来しない。
写真と記憶は決定的に異なっている。私たちが記憶し想起するのはイメージであり、写真はイメージである以上に物なのだ。
それゆえ、個々の写真を前にするとき、私は彼を想像することがない。写真から視線を外し、それらを全体として眺める視座を仮構したとき初めて、それは生じることになるのだ。彼の作品が私的記憶の共有を迫るナルシシズムの表現などとは完全に距離をおくのは、写真と自らの記憶との差異を一つの絶望とともに受け入れているからだろう。つまり、彼女を永遠に所有することの断念とともに。


また、『Mémoires 1995』、『Aus den Fugen』における写真の中の彼女の容貌は、それら全てが同一の彼女だと認めることがひどく困難なほどに異なっている。あるものは少女の如き幼さで、あるものは彼女の母と見紛うほどの老いた姿で私を見つめる。その眼差しは、ときに私以外見えぬかのようであり、ときに人ならぬカメラを眺めるような冷たさで私を射抜く。仮に時系列に並べ直したとしても、そこに連続性は見出せまい。その差異は、わずか二日間の記録である『Venice』においても現れているのだから。
写真の物語への、自らに刻まれたものとして感得されるしるしへの抵抗は、彼女の生が他でもあり得たことを示す、という形をとることはない。それらはどのような未来も拒否するという形でこそ現れる。つまりそこではその一瞬が全てであり、それはどのような全体の一部にもならないのだ。


『Aus den Fugen』というタイトルは継ぎ目がばらばらになることを意味しているのだろう。イメージとしてはしるしをそこに留めながら、物としてはその連続から外れてある写真。意味する所はズレるだろうが、小原真史のように「脱臼」の比喩を当てはめるならば、記憶の中で意味として機能するために収まるべき位置から=関節からはずれ、宙ぶらりんに機能しなくなった時間の突端としてそれはある。
死んでいった愛する者の記録を前にしてとるべき態度について、彼は約20年の歳月をかけて一つの結論を見いだしたのではないだろうか。彼女を自らの、記憶という物語の中に閉じ込めることなく、つまり記憶の中に他者としての彼女を失うのではなく、写真の持つ外部性を通じて、彼女と新たに出会い続けること。小原が序文でデリダを引いて述べているように、私たちは死者を2度失ってはならない。その喪失に、より能動性を、より責任を強調すべく換言するならば、私たちは「死者を2度殺してはならない」のだ。このことを敷衍してみれば、他者を物語の中に閉じ込めることはすでに、一度目の殺害を遂行しているということにならないか。勿論、他者は常にそのような殺害を逃れて写真の如く外部に実在しているのだが。しかし、これが社会という「私たち」によってなされるとしたらどうだろうか。「私たち」にとっての他者を「私たち」の物語に内化すること。物語はおそらく、私的記憶を除けば常に「私たち」のものだろう。言葉は全て「私たち」を根拠に成り立っているのだから。それはどこまでが「私たち」なのかを不断に確認するために存在するのだ。私的記憶はそれに対して、どこまでが「私」なのかを保証するものだろう。だがこのときの私性は、それ自体物語であるが故に公的なものを前提としている。


もし、あらゆる争いが「私たち」の形成に関わっているのだとしたら、現実の殺害が、物語への内化という抽象的な殺害と密接な関係を持っているのだとしたら。為さねばならないのはそのような「私たち」を疑問に付すことであり、その方法はそこに別の「私たち」を対置することではあり得ない。求められるのは、「私たち」と複数形に還元されることのない別の「私」なのだ。


その点バルトは正しかった。公的なもの=「ストゥディウム」を拒否し私的なもの=「プンクトゥム」を対置した所までは。しかし、彼の場合、私性の根拠もまたしるしなのだ。「プンクトゥム」の共有出来なさを痛感させる限りにおいて、バルトはその私性を提示するが、それはバルトという固有名の魅力に大きく依存している。その固有名は、「私たちのバルト」という一つの物語を結実しないだろうか。確かに彼が試みた断章形式は物語化への拒否として受け取ることが出来よう。しかし、いまや、そのような試みも含めてバルトという物語が形成されてはいないだろうか。そうだとしても、もちろんそれは、バルト自身に帰せられる問題ではないのだが。


古屋が一連の作品によって示したのは、最も公的に「私的」なもの、私的記憶を通して現出する、そこに還元されない「私ならざるもの」としての他者=Christineであり、写真の決して物語化されえない「物」としての側面であるはずだ。このような何ものにも還元されない全き外部性こそ「別の私」の本質ではないのか。


もしかすると、ブランショカフカを論じながら芸術の定義に「孤独」を用いるとき、このような含意がなされているのかもしれない、というのは根拠のない思いつきにすぎないが、少なくとも古屋誠一の作品群は一つの孤独を引き受け続けた成果なのだと言うことは出来るだろう。


参照した古屋誠一の作品(全て東京都写真美術館にて閲覧可能)

『AMS』
『Seiichi Furuya Mémoires 1995』 Distributed Art Pub Inc (Dap) (1995)
『Christine Furuya Gössler Mémoires, 1978-1985』 光琳社出版 (1997)
『Last Trip to Venice 1985』
『Alive』 Scalo Publishers (2004)
『Aus den Fugen』 赤々舎 (2007)