他者を愛せないということ・自己愛という牢獄 

素粒子 (ちくま文庫)

素粒子 (ちくま文庫)

 

人の生き方はその人の心の傾注(アテンション)がいかに形成され、また歪められてきたかの軌跡です。注意力(アテンション)の形成は教育の、また文化そのもののまごうかたなきあらわれです。人は常に成長します。注意力を増大させ高めるものは、人が異質なものごとに対して示す礼節です。新しい刺激を受け止めること、挑戦を受けることに一生懸命になってください。
検閲を警戒すること。しかし忘れないこと―社会においても個々人の生活においても最も強力で深層に潜む検閲は、自己検閲です。
本をたくさん読んでください。本には何か大きなもの、歓喜を呼び起こすもの、あるいは自分を深めてくれるものが詰まっています。その期待を持続すること。二度読む価値のない本は、読む価値はありません(ちなみに、これは映画についても言えることです)。
言語のスラム街に沈み込まないよう気をつけること。
言葉が指し示す具体的な、生きられた現実を想像するよう努力してください。例えば、「戦争」というような言葉。
自分自身について、あるいは自分が欲すること、必要とすること、失望していることについて考えるのは、なるべくしないこと、自分については全く、または、少なくとも持てる時間のうち半分は、考えないこと。
動き回ってください。旅をすること。しばらくの間、よその国に住むこと。決して旅することをやめないこと。もしはるか遠くまで行くことができないなら、その場合は、自分自身を脱却できる場所により深く入り込んでいくこと。時間は消えていくものだとしても、場所はいつでもそこにあります。場所が時間の埋め合わせをしてくれます。例えば、庭は、過去はもはや重荷ではないという感情を呼び覚ましてくれます。
この社会では商業が支配的な活動に、金儲けが支配的な基準になっています。商業に対抗する、あるいは商業を意に介さない思想と実践的な行動のための場所を維持するようにしてください。みずから欲するなら、私たちひとりひとりは、小さな形ではあれ、この社会の浅薄で心が欠如したものごとに対して拮抗する力になることができます。
暴力を嫌悪すること。国家の虚飾と自己愛を嫌悪すること。
少なくとも一日一回は、もし自分が、旅券を持たず、冷蔵庫と電話のある住居を持たないでこの地球上に生き、飛行機に一度も乗ったことのない、膨大で圧倒的な数の人々の一員だったら、と想像してみてください。
自国の政府のあらゆる主張にきわめて懐疑的であるべきです。他の諸国の政府に対しても、同じように懐疑的であること。
恐れないことは難しいことです。ならば、今よりは恐れを軽減すること。
自分の感情を押し殺すためでないかぎりは、おおいに笑うのは良いことです。
他者に庇護されたり、見下されたりする、そういう関係を許してはなりません――女性の場合は、いまも今後も一生そういうことがあり得ます。屈辱をはねのけること。卑劣な男は叱りつけてやりなさい。
傾注すること。注意を向ける、それが全ての核心です。眼前にあることをできるかぎり自分の中に取り込むこと。そして、自分に課された何らかの義務のしんどさに負け、自らの生を狭めてはなりません。
傾注は生命力です。それはあなたと他者とをつなぐものです。それはあなたを生き生きとさせます。いつまでも生き生きとしていてください。
良心の領界を守ってください……。

2004年2月                   スーザン・ソンタグ


素晴らしい文章だ。真っ直ぐで、強くて、正しくて。私の愛する小説家が新しく始めた連載で引用していて、私はこの文章に出会った。そして彼がそこで言っているように、この文章を読み終えたらまず、窓の外に広がる景色をゆっくりと、何も考えずに眺めた。ただ感動して、本当にそうすることしかできなかったのだ。しかし、少しして、悲しくもなった。それはこのソンタグの文章がその素晴らしさ(真っ直ぐで、強くて、正しい)ゆえに、届かせることのできない人々と、そのような人々について書いた小説について私が考えていたところだったからだ。
その小説は『素粒子』(ミシェル・ウエルベック)。初読はもう一年近く前のことだが、最近映画化されたものを見て、かなり上手く映像化しているものの、小説の魅力が決定的に損なわれているという感想を抱き、あらためて読み返したくなったのだった。
素粒子』の主人公はブリュノとミシェルの異父兄弟。彼らこそソンタグが言葉を届かせることのできない、屈折して、間違ってはいるかもしれないが非常に困難な場所で生きている人間であり、彼らに届くような言葉もまた必要なのではないかと考えさせられるのだ。


1.兄、ブリュノ

兄、ブリュノは高校教師。ボードレールマラルメを教えている。42歳。性的欲求に取り付かれている。といっても最近に始まったことではなく、彼の生涯はほとんどそれによって規定されている。
彼にとって、性的欲求を受け入れてもらうことこそが自己の承認であり、それはきわめて短絡的な表現へと向かう。その欲求の達成のために社会的に承認された迂回路としての恋愛を、戦略としても取ることはない。なぜなら彼が求めているのはあくまで、無条件で全的な承認だからだ。それはほとんど赤ん坊と代わるところがない。他者を肯定する条件が極めて記号的なもので、逆に自らが承認されるための努力は全くせず、時には差別的発言や過剰な道化的振る舞いといった、嫌われようとしているとしか思えない行動へと走る。彼の承認への欲求は二重化している。つまり、欲求自体の承認と、短絡的な表現しかできない自己の承認。前者は刹那的なものであり、後者はそのような欲求の挫折の積み重ねとしての自己、という物語的なもの、すなわち他者との関係の構築の上に始めて成立する通時的なものである。それゆえに、もし彼がうまく振舞って、女性の愛情を手にしたとしても、それはまったく自身の肯定には結びつかない。彼がはじめから他者を不快にさせるような仕方で関係を求めるのも、そうしなければ過去の挫折まるごと肯定してくれる他者には出会えないからである。それはすなわち、常に100パーセントの肯定しか求めないということであり、そうしてくれる他者以外はほとんど他者として認めないということになる。いまだ挫折の物語としての自己が堆積していない幼い頃、自己承認の求め方は、「純粋」というポジティブな言葉で語りうるくらいにきわめて単純なものだった。

ブリュノの最初の記憶は四歳のときのものだ。屈辱の記憶である。当時ブリュノは、アルジェのラペルリエ公園の保育園に通っていた。秋の午後、女の先生が男の子たちに、木の葉で首飾りを作るやり方を説明したところだった。坂の途中に腰を下ろして待っている女の子たちは、すでにして女ならではの愚かしい忍従のしるしを示していた。たいがいは白い服を着ている。地面には黄金色に紅葉した木の葉が散らばっていた。栗やプラタナスの木が多かった。ブリュノの仲間たちは一人また一人と首飾りを完成させ、それぞれお気に入りの女の子の首にかけにいった。ブリュノは手間取っていた。葉っぱが破れてしまい、手の中で何もかもばらばらになってしまうのだ。ぼくだって好かれたいんだってこと、どうやったらわかってもらえるだろう?首飾りもなしで、一体どう説明すればいい?ブリュノはかんしゃくを起こして泣き出した。先生は助けに来てくれなかった。もう保育時間はおしまいで、子供たちは立ち上がって公園を去り始めていた。やがて保育園の門は閉められた。(55)


これから後もブリュノはずっと、「首飾り」を作ることができなかった。それゆえにいつも「首飾り」なしで「ぼくだって好かれたいんだってこと」を伝えなければならなかった。ヒッピーだった母親に捨てられて、祖父母によって育てられたブリュノだったが、四歳のときに祖父が、その六年後に祖母がなくなり、彼は学校の寄宿舎に入れられることとなった。そこで飽きられるまでにいじめ、辱めつくされて、ようやく解放されたころ、女の子のことが気になりだした。

第四学年になると、シネクラブに登録することができた。映画は木曜の夜、男子寄宿舎の催し物ホールで上映された。そこには女の子たちもやってきた。十二月のある晩、『吸血鬼ノスフェラトゥ』が上映されたとき、ブリュノはカロリーヌ・イェサヤンの隣に座った。映画の終わり近くなって、それまで一時間の間思い悩んでいたブリュノは、カロリーヌの腿の上に左手をそっと置いた。至福の数秒(五秒?七秒?いずれにせよ十秒以上ではなかったはずだ。)が過ぎたが、何も起こらなかった。彼女は身動きしない。ブリュノは体がかっと熱くなり、今にも気を失いそうだった。それから、何も言わず、彼女は優しく手を押しのけた。ずっと後になって、どこかの娼婦に一物をしゃぶらせながら、ブリュノはこの恐るべき幸福に浸された数秒間のことを、何度も繰り返し思い出すだろう。カロリーヌ・イェサヤンがそっと手を押しのけた瞬間のことも思い返すだろう。この少年のうちには、まだ性行為や性の享受とは無縁の、とても純粋で愛情深い何かがあったのだ。彼を動かしたのは、誰かの優しい体に触れ、優しい腕に抱きしめられたいという単純な欲望だった。(73-75)


「カロリーヌ・イェサヤンの腿に手を置いたとき、ブリュノの気持ちとしては彼女に結婚を申し込んだのと同じだった」。この逃げ場のない切実な欲求の挫折は、彼のその後を決定付ける経験となってしまった。
彼は母親とめったに会う機会はなかったが、夏休み彼女の別荘に出かけたことが二度だけあった。そこで母、ジャニーヌは、旅の若者たち、<ヒッピー>と呼ばれる若者たちを大勢養っていた。ブリュノは彼らを、「プチブルの世界」よりも閉鎖的な、性的強者しか受け入れない集団だと感じた。そして自分は決して<ヒッピー>の仲間に入れてもらえないだろう、と。同じころ、彼はカフカを読み始めた。

最初は寒々しさ、冷気が忍び寄るような感じを覚えた。『審判』を読み終えたときは、痺れたような、ぐったりした感覚が数時間も続いた。たちまちのうちに彼は、このスローモーションの世界、恥辱にまみれ、人と人がとてつもない空虚の中ですれ違い、互いの間にいかなる関係も結び得るとは思えない世界が、まさしく自分の精神世界そのものであることに気がついた。それは緩慢で、冷え冷えとした世界だった。ただしひとつだけ熱いものが、女たちの脚の間にあった。だがそれは彼の手には届かないものだった。(85)


このときから、彼にとって性的な関係のみが他者との関係になってしまった。その後、ところかまわず自慰行為にふけるなど、不毛で犯罪に隣接した地点ではあるが何とか生きてきた。
その後、彼は結婚し一人の息子ももうけた。しかし結局のところ、彼は他者を記号的な存在(大きなおっぱい、丸々とした尻、愛想のいい唇)としてしか見なせないままだった。妻が、息子が、不幸になっていくのを見ながら、彼はようやく、自身がもはや抜け出せないほどに自己愛にまみれた人間であることに気がつくのだ。そんな罪責感から逃れるように、<ヒッピー>の生き残りたちが集う「変革の場」へと向かう。そこでブリュノはクリスチヤーヌという名の女性と出会う。


2.弟、ミシェル

弟、ミシェルは兄と対照的だ。まず生涯を通じてほとんど性欲を感じたことがない。肉体的な反応がないというわけではないのだが、彼にとってそれはきわめて些細なことである。「ミシェルの場合、ペニスは小便の役に立つだけだった。」そして兄が、女性からの愛情を求め挫折し続けたのに対し、ミシェルは幼いころから従妹のブリジットや幼馴染のアナベルと親密な関係を築いていた。科学書哲学書、冒険小説を読みふけり、知識と思考を積み重ねていった。人付き合いはよくないものの、仲間に嫌われもせず、いじめられることもなかった。それゆえに、か、それ以前に、か、彼には他者から承認を受けることにほとんど興味がない。齢を重ねるごとに美しくなるアナベルは、ミシェルのことをほとんどフィアンセだと感じていた。しかし、ミシェルには性欲もなければ愛情もなかった。アナベルやブリジットのことは好きだったが、それだけだった。いや、正確に言うならそうではない。彼はアナベルのことを愛したかった。けれど、恋とか愛とかいわれる強い力が彼のうちから生まれてくることはなく、そのような力の渦巻く世界から「数センチ分の虚無で隔てられ、甲羅かよろいかぶとにくるまれたような気が」していた。祖母(父親の母親)が亡くなったときの彼の奇妙な反応は、彼が単に無感動な存在ではないことを証し立てている。

ミシェルは自室に戻った。せいぜいほんの二十センチずつの、小刻みな歩幅で。ブリジットがベッドから起き上がろうとしたが、マリ=テレーズがそれを制した。二分くらいたつと、ミシェルの部屋から猫の鳴き声のような、叫び声のような音が聞こえてきた。今度はブリジットは部屋から飛び出した。ミシェルはベッドの下で丸くなっていた。両目は見開かれていた。表情には悲しみもなければ、人間的感情に似た何者もなかった。その顔にはただ、動物的な、見るもおぞましい恐怖の念のみが浮かんでいた。(128)

その後ミシェルもまた兄と同じように、けれども異なる原因で他者と出会うことなく長い年月を過ごした。その間、世界で最も優秀な物理学者となり、分子生物学者へと転向、人間の意識を解明しようと試みる。そして、祖母の墓が移動されるという報を受けて戻った故郷で、彼はアナベルと再会する。


3.クリスチヤーヌ
ブリュノが訪れた「変革の場」とは、

五月革命世代のあるグループが、メンバーの一人の親が所有する広大な敷地に「ユートピアを具体化しよう」とのあっぱれな目的のもと建設した一種のコミューン。(中略)「よりつつましく、ヴァカンスのための場所を作り、趣旨に賛同する人々が夏の間、その原理の実地への適用を体験できるようにしよう」という目的で開設された(中略)。原理とは「自己管理、個人の自由の尊重、直接民主制」の原理だという。「同時にまた、共同作業や、創造的な出会いを、ヒューマニズムと共和主義の精神で促進する。そしてさらには、創立者の一人の言葉に従うなら、『思いきりセックスする』のだ。」(野崎,215)

つまり、彼が若いころに出会った<ヒッピー>思想の成れの果てともいうべき場所だ。そこで出会ったクリスチヤーヌもブリュノのように性的欲求によってその生涯を支配されてきた人間だった。彼女はブリュノの性的欲求を、そして彼の惨めな物語を受け入れる。彼は彼女とともに年老いて、「肉体的色恋のコメディーから卒業」できるとさえ思う。「変革の場」を去る際に、二人は再会の約束をし、一ヵ月後それを果たす。そしてヌーディスト地区へと向い、乱交に耽る日々を送る。彼はほとんど幸福を確信する。長い間閉じこもっていた自己愛の牢獄からようやく脱出できるように思う。ところが、アクシデントが起こる。乱交の最中クリスチヤーヌは痛みのあまり気を失いかける。救急車で病院へと運ばれるが、手遅れであることを知らされる。長期間にわたる酷使のために、彼女の尾骶骨は完全に壊疽していたのだ。クリスチヤーヌ自身は知っていた。遅かれ早かれこのような結末を迎えることを。彼女は一生車椅子の人生を決定付けられた。十日後二人は再会。そして、一度は「僕の家に引っ越して繰ればいいさ。パリに出てきて。」というブリュノだったが、クリスチヤーヌに見つめられ、「本当にそうしてほしいの?」とたずねた言葉に彼は答えなかった。三十秒の沈黙ののち、彼女に言われてしまう。「無理しないで。あなたにはまだあと少し人生が残ってるんだから。身体障害者の世話をして過ごさなくてもいいのよ。」その数日後に、彼女は自殺。葬儀場へと向かうブリュノ。

棺はまだ開かれたまま、架台つきのテーブルに置かれていた。ブリュノは近寄り、クリスチヤーヌの遺体を見、そのまま後ろに倒れた。頭が地面に衝突した。職員たちが慎重に抱き起こした。「泣きなさい!泣かなきゃだめです!……」年長の職員が熱っぽい口調で励ました。彼は頭を振った。泣けないことはわかっていた。クリスチヤーヌの体はもはや動くことも、話すこともできない。クリスチヤーヌの体はもはや愛することができない。この体にはもはやいかなる運命も閉ざされている。しかもそれはすべて彼のせいなのだ。今度という今度は、カードを切りつくし、ゲームは打ち止め、最後の札が配られたのに、決定的失敗に終わったのだ。両親がそうだったように、彼にもまた愛することはできなかった。(340-1)

ブリュノは結局自己愛の牢獄から抜け出すことができなかった。「愛することはできなかった」という嘆きも、自己愛の内側からのものに過ぎない。彼は発狂し精神病院へと入る。そしてまた、ブリュノとはまったく対照的な弟、ミシェルもほとんど同じような結末を迎える。


4.アナベル

アナベルと再会したミシェルは、彼女がいまだ独身で子供もなく、まったく幸せな生活を送ってこなかったことに驚く。「もう遅すぎるっていうことはわかってる。それでも、やってみたいの。わたし、七四年度の通学用定期券、まだ持ってるのよ。一緒に高校に通った最後の年。それを見るたびに泣きたくなる。どうしてここまで悲惨なことになったのかがわからない。どうしても納得できないのよ。」アナベルの人生はブリュノとは異なった形で過去に縛られていた。彼女の人生とは結局のところ、ミシェルと共にしかありえなかったのだ。

彼は何とか貫通することに成功したが、本当に好きなのは彼女のそばで眠ること、彼女の生きた肉体を感じることだった。ある夜彼は、ルーアンの町、セーヌ右岸にある遊園地の夢を見た。鉛色の空を空っぽの大観覧車が回り、その足下の川に錆びた貨物船がもやってあった。彼は派手な、とはいえ冴えない色調のバラック小屋の間を進んでいった。凍てつくような雨混じりの風が顔を打った。遊園地の出口まで着たとき、カミソリを振りかざす革ジャンの若者たちに襲われた。数分間なぶりものにしたあげく、彼を残して去っていった。両目から血が流れていて、これで一生目が見えなくなってしまったことがわかった。右手も半ば切断されていた。それでも彼には、出血と苦痛にもかかわらず、アナベルは最後までかたわらにいてくれるだろう、自分を永遠に愛情で包んでくれるだろうということがわかっていた。(315)

それにもかかわらず、ミシェルもまた他者を、アナベルを愛することはできなかった。研究のためアイルランドに向かわなければならない旨を伝えると、アナベルは泣きながら、「あなたの子供がほしい」と訴える。「人生を愛してもいないのに、子孫を残そうだなんて」と呟くものの、彼は申し出を受け入れる。けれど、その結果アナベルの子宮がんが発覚し、子宮は摘出。子供を生むことができない体になってしまった。がんの腹部への転移が見つかり、治癒の可能性がないわけではないものの、きわめて困難であることを告げられる。その事実に対して、ミシェルが無感動だったというわけではない。

手術のあとがまだなまなましく、痛みも強かったのでセックスするのは無理だった。その代わりに彼女は彼を長々と腕の中に抱きしめた。静けさの中で彼の歯が鳴る音が聞こえた。ふと彼の顔に手を伸ばしてみると、涙で濡れているのがわかった。彼女は彼の性器をそっと撫でた。それは興奮を誘うとともに気持ちを静めてくれることでもあった。彼はメプロニジンを二錠飲み、やがて眠りに落ちていった。(380-1)

アナベルもまた自ら命を絶ち、ミシェルは研究に没頭する。人間の完全な自己複製の理論を確立したのち、彼も消息を絶つ。

素粒子」の筋は簡略化してしまえばほとんど三文小説のそれである。ただ一点、それが徹底して自己の、自己愛の内部、すなわち他者を愛することの不可能性を描いたということを除けば。これが彼らの関係がハッピー・エンドに終わる映画と小説をわける、唯一かつ最大の違いでもある。もはや「愛」を直接的に描こうとしても薄っぺらなものにしかなり得ないとウエルベックは考えているのだろう。このような態度をして中原昌也は、「小説の本当の誠意」と言い、ウエルベックを「世界で唯一、信じられる作家」と評している。しかし、それが自己愛に耽溺した私のような、一部の人間以外に読まれる価値はあるのだろうか。たとえば「愛」というものを当然のように経験済みのものにとって。長たらしい、偽悪的で、その偽悪さも含めてナルシスティックな文章によって成り立つこの小説が。『素粒子』を評価する論者の多くは(野崎歓巽孝之など)そのイデオロギッシュな、あるいはジャーナリスティックな価値を称揚する。キリスト教を源とする道徳、近代が生んだ個人主義自由主義の元での肉体的快楽、哲学をはじめとする人文科学のよりどころとなる精神。それらすべてが科学によって、人間をほとんど機械同様に制御できる世界の到来、すなわち、「自らの身代わりを作り出すための条件を自ら管理することのできる、現在までのところ宇宙で唯一の動物種」となり、セクシャリティはもはや不要、ただし性的快楽は常に生み出すことができる新人類を、ミシェルという天才科学者を通じて描いたこと。それが現代という時代への有効な警鐘となっている、と。しかし、それもやはりミシェルという個人の苦悩から生まれたことに間違いはなく、それを切り離して『素粒子』は読まれるべきではないのだ。もし、『素粒子』という小説に普遍的な価値があるとすれば、自身が自己愛に満ち満ちた小説であることに自覚的だということ。つまり、自己愛に耽溺している間は、決して他者を愛しているとは言わないこと。それは逆に他者を本当には憎むこともできないということだ。希望でも絶望でもないゼロ地点が存在するということ、時に絶望よりも困難なその地点を、『素粒子』は示してくれるのではないか。

参考文献

ウエルベック,ミシェル 野崎歓訳 『素粒子』 筑摩書房 2006
ソンタグ,スーザン 『良心の領界』 NTT出版 2004
中原昌也中村佳子柳下毅一郎) 『ミシェル・ウエルベック、不可能の探求者』 「文学界五月号」 2007
野崎歓 『フランス小説の扉』 白水社 2001