ヨコハマ・ナルシス・ノスタルジア

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

本当に好きなものについてはなかなか語れないもので、それは、「好きなもの」について語ることが、それを「好きな私」について語ること、その価値を称揚することが、「私」の価値を称揚することになってしまうからだ。そして、他者にそれを否定されてしまうのが怖いからだ。
きっとどのような発語も、その発語者の承認を暗黙のうちに要求しているのだから、現にこうして文章を書いている以上そんなことは気にする必要はない。そうかもしれないが、うまくやらないと、ただのナルシシズムの発露にしかならない。しかしそのような懸念も、ナルシシズムを源泉とするのだから(つまり、ナルシストは嫌われる傾向があるので、より確実に他者の承認を得るためには自己愛は隠蔽されなければならない。)と、そのような認識もまた…これでは無限に続いてしまうので、僕らはどこかでそれを正当化するか、もしくは忘却して生きている。自己愛は、結局のところ、他者を害さないような形で保持されていればそれでいいのかというとそうでもなくて、例えば、小説や、映画、歌の良し悪し(一面的ではあるが)は、それらが意図せずして表現してしまう自己愛が、受け手のそれをも満たすかどうかにかかっていると言えるかもしれないし、他者への愛の表明も、要求する承認のもたらす負荷が非常に大きくなりうるので、一種の賭けになる(いわずもがな、か)。このあたりは、功利性だとか倫理、道徳の議論と類比的だ。当たり前のような気もするけれど、変に分離して考えられているように思われる。
なんだかよくわからない前置きをしてしまったが(エクスキューズ)、僕が言いたいのは、「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画が好きだ、ということです。
昨日、「20世紀ノスタルジア」(映画。傑作。)を見たのだけど、それに、宇宙人を自称して、「地球はもうすぐ滅亡するんだ(環境問題のせいで)」なんてことを言い続ける片岡徹君(高校2年生)が出てくる。彼は最終的に、広末涼子演じる遠山杏のおかげで、自己・人間相対化のオブセッションを原因とした(たぶん)、「宇宙人」を自分から切り離すことができるのだが、僕は遠山杏に出会うことのなかった片岡徹に、「ヨコハマ買い出し紀行」を読んでほしい。
それで、その「ヨコハマ買い出し紀行」というのは結局どういう漫画なのか。考えたけどやっぱり言えそうにないので、またそのうち。読むんだったら、つまらなくても5巻ぐらいまでは読んでみて。