反復と終わりの不可能性 ドン・デリーロ『ボディ・アーティスト』

ボディ・アーティスト

ボディ・アーティスト

嵐の後のこんなにも陽射しの強い朝、彼らはキッチンにいた。彼のトースト。彼女の天気予報。二人の会話はかみ合わない。幾分芝居がかった口調の男。それはすこし彼女をいらだたせる。けれども本当に苛々しているのは男の方だ。
ブルーベリー、ラジオ、オレンジジュース、髪の毛、バンドエイド、イチジク、大豆粉、「何かいるみたい」な物音、煙草、金曜日、カケス、車のキー。
彼女の想念と二人の話題は脈絡なくさまざまに飛び交い、二人の身体もせわしなく動き回る。朝食の光景は、成熟した男女が生活を共にしているその必然性を感じさせる。
男の名はレイ・ローブルス、64歳。映画監督。彼の情報はその自殺による死を報じる新聞記事のような一節によって与えられる。生い立ち、成功、失敗。そして残された彼女は彼の三番目の妻、ボディ・アーティストのローレン・ハートケ。
夫が去った海辺の家に彼女は一人残った。彼女からは夫と一緒に何かが去ってしまった。いや、もしかしたら、そんなものは元からなかったのかもしれない。例えばそれは、時間と呼ばれているものの、おそらく不可欠な要素。

パン粉の箱が食糧貯蔵庫の棚のひとつに置いてあった。彼女は箱入りのパラフィン紙を見た覚えがあった。箱の色は青と何かの色だった。こういうことが今重要なのだ。食事、手仕事、おつかい。
彼女はゆっくりと部屋部屋を歩いていった。服を脱ぐとき、彼女は自分の背後に彼がいるような気がした。冷たい床の上に裸足で立ち、汚いセーターを脱ぎ捨てた。それから彼女はベッドのほうに半分ほど体を向けた。
最初の頃、彼女は車から降りたとき、崩れ落ちそうになった――派手に転んだわけではないし、それによってどうしたというわけでもない。ただ、どうしようもなくなって地面に座り込んだのだ。どうやって立ってよいのかを忘れてしまったような感じだった。
彼女はコロッケを揚げようかと思った――たった一人であることを意識しながら。部屋の向こう側から自分自身を見つめるような感じ。あるいは、今たっているまさにこの場に立ち、今のままの自分でいながら、どこか空中に漂う自分自身を見る――そしてもう明日になったと考えている――そんな感じ。
彼女はレイの煙とともに消えてしまいたかった。死んで、彼と一体化したかった。彼女は箱のぎざぎざした縁にそってパラフィン紙を切った。それからパン粉の箱に手を伸ばした。
電話が鳴ったとき、彼女は電話を見なかった――映画の中で俳優たちがやるようには。現実の人間たちはなっている電話をじっと見つめたりしないのだ。
パラフィン紙はタタタタと音を立ててロールから離れ、箱の縁のぎざぎざに沿ってきれていった。そして彼女はその音が背骨を伝っていくように思った。
彼女はすでに明日のことを考えていた。日々の計画を先んじて立てた。彼女は羽目板張りの部屋にひとりで座っていた。浴槽の中に立ち、タイル壁の上のほうをスプレーしたが、しまいには腐った松のような酸とエーテルの匂いに圧倒された。それでもスプレーをする手を止めることはなかなかできなかった。
彼女は鍋で火傷をし、すぐに冷蔵庫へ走ったが、糞たれ冷蔵庫には氷が入っていなかった。糞たれ製氷皿に水を入れておくのを忘れたのだ。(35-36)

このように切り取れば、かなりノイズが混じるものの、その記述の割合から「彼女はコロッケを揚げようとして火傷をしたのだ」と理解してしまうかもしれない。けれど、文章は次のように続いていく。

なんとも奇妙なことだ。大企業がパン粉を大量生産し、包装し、世界中のいたるところで売っているのに、彼女がパン粉の箱を見つめたのはこれが本当に初めてなのだ。――突如としてそんな風に思われた。本当に見て、中に何が入っているか確認した。パン粉だ。
 彼女は羽目板張りの部屋に座り、読書をしようとした。その前に彼女は暖炉の火をおこした。それはブランデーと暖炉に似合うようにとデザインされ、大失敗した部屋だった。家具の趣味がなんとも悪かった。彼女は紅茶を飲み、本を読もうとした。しかし彼女は一ページほど読み進むと、空間に固定された事物をぼんやりと眺めてしまうのだった。
 最初の頃、彼女はとんでもない貝を食べてしまい、その後の数時間をトイレに行ったり来たりしてすごした。しかし。少なくともこれで身体を取り戻した。下痢便ほど効果的なものはない、と彼女は考えた、精神と身体をひとつにするためには。
 彼女は自分が立てる音を聴きながら階段を登った。その音はなぜか家のほかの場所から聞こえてくるように感じられた。
 彼女は汚いセーターを脱ぎ捨てた。腕を上げてセーターを抜き取ろうとしたとき、手に軽く何かが当たった。前にもこういうことはあったのだが、彼女は何が当たったのだろうと考えていた。そして思い出した。天井から下がっているランプだ。その金属の笠が揺れている。それは部屋にまったく合っていないランプだった。彼女はベッドのほうに体を向け、そして見つめた。――半ば見つめた――期待ではなく、何か別のものをこめて見つめた。その意味はあまりに希薄で、彼女はそれを読み取ることができなかった。(36-37)

彼女の現在はどこだろうか。記憶も、願望も、想像も、リアリティというグラデーション、前後関係というパースペクティブを失い、着地する地平を見出すことのできぬまま浮遊している。
しかし、読み終えてしまえば、どの場面も等しく過去のものかもしれない。物語の全体としてはリニアに進んでいくのだから。
私たちの多くはきっと、時間に二つの様相があると考えている。時刻や日付によって範囲を確定し、日・時・分・秒などによってその内包は量として把握され、年表・カレンダー・アナログ時計などの機器が視覚的に前後・位置関係を示す「客観的時間」。それに対する「主観的時間」、他者と共有すべき指標を持たない質的な時間。彼女が生きている時間こそ、その極なのだ、と思うだろうか。確かにそうだ。そのことに間違いはないだろう。だが、不思議なのは、そのような体感を疑いないものとして感じる読み手が経験するのは、彼女の主観的世界ではない、ということ。読み手の目の前には、魂が抜けてしまったような彼女の姿が常に存在しているのだから。
彼女は記述されている。言葉によって。だとすると、「客観的時間」の壊乱は、言葉の壊乱でもあるのではないか。

彼女は天気予報を聞くのをやめた。天気をそのままに受け入れた。冷たい雨も、風の強い日も、傾斜した野原で風に吹かれている丸い岩々も――家紋のように見える岩々は稲光と物語と時間を帯びて脈打っている。彼女は薪を切った。コンピュータの前に何時間も座り込み、生中継で流れ続ける映像をじっと見つめていた。フィンランドの都市を通る二車線の道路の縁から撮った映像。フィンランドのコトカ市では真夜中であり、そして彼女はスクリーンを見つめていた。それが面白かったのは、それがたった今、彼女がここに座っているあいだに起きていることだからだ。そしてまた、それが一日に二十四時間起こり続け、個人の顔は見えないからだ。――ただ車がコトカ市から出たり入ったりしているだけ、あるいはただがらんとした道を映し出す空白時間のみ。空白時間のときが最高だった。(40)

出来事によって、言葉によって分節されることのない、それゆえ振り返ることも、未知の彼方を思い描くことも意味をなさぬ時間。ただただ純粋な現在の堆積。彼女はそれに耐えることができない。それを自身のものとして引き受けることができない。だが、彼女が求めているのはそれなのだ。それは、彼女が失った言葉と出来事に意味を与えるその順列性、意味の後の差異にもとづく同一性、それら順列性・同一性自体が生成する場、あるいはアイデンティファイする主体/客体が充填される器のようなものだ。何かを受け入れるか、あるいは拒むのかを選択する以前に、その何かを何かとして現象させる先験的な次元。その先験的であるはずの次元を経験的に生きなおさなければならないという逆接。天気予報を拒否すること、何も起こらない映像を見続けること。
孤独に失ったものを取り戻そうとする彼女。失ったものを取り戻すために孤独であろうとする彼女。そこに彼が現れる。

彼女はその翌日、小さな寝室で彼を見つけた。三階の廊下の一番奥、空っぽの部屋に隣接した寝室だ。彼は小柄で、引き締まった体をしており、最初彼女は子供かと思った。薄茶色の髪、深い眠りから無理やり起こされたかのような、あるいは薬で朦朧としているかのような表情。
彼は下着姿でベッドの縁に座っていた。最初の数秒間、彼女は彼のことを必然的なものだと考えた。彼女は手探りするように過去に遡り、家に誰かがいると最初に感じた頃のことを思い出した。それから彼女は寸分も違わず、今この瞬間に戻った――これまで知覚してきたことがすべて解明され、証明されて。(43)

レイと彼女の最後の朝、レイが彼女に話そうとしたこと、それは「何かいるみたい」な物音のことだった。彼―後に彼女はタトル先生と名づけるのだが―がその物音の主だった、と彼女は確信する。彼女は彼に話しかける。「答えてちょうだい。どのくらい前からここにいるの?」「でも、どうしてここにいるの?かなり前からここにいたわけ?」
だが彼の応答は通常の会話としては成立しないものだ。

「話してちょうだい」−「話してちょうだい。私は話している」
「何が見える?」−「森がその一部だ」
「私はこの家が好きなの。そう、ここにいたいのよ。でもこれは借家なの。私が借りてるの。六週間か七週間したら、ここを出るわ。もっと前に出るかもしれない。私たちで借りた家なの。五週間か六週間。もっと短いかもしれない」−「でも、あなたは立ち去らなかった。」−「立ち去るわよ。二、三週間でね。その時が来たら」「契約が切れたらね。もっと早いかもしれない。立ち去るわよ」−「でも、あなたは立ち去らない」

ほとんど謎かけのような受け答え。しばらくやり取りを続けた後に彼女は気がつく。

それはあけすけな物まねだったわけではないが、彼女は自分の声の要素を聞き取った。きびきびとした話しぶり、のどの奥にかすかにこもる音、彼女の声の高さ、彼女の音。それは実に困難なこと、ほとんど超自然的なことだった――他人の声、彼の声に自分の声を聞き取ること――そして心を深く掻き乱すものだった。彼女はそれが自分の声なのか確信できなかった。それから確信した。その頃には、彼はもはやいすのことやランプのこと、じゅうたんの模様のことなどを話していなかった。彼は彼女が誰かと話しているときの、彼女の役を演じているようだった。(55-56)

彼の語る言葉は、彼自身の言葉ではない。彼女の、そしてレイの言葉なのだ。言葉だけではない。声色、仕草も、また。それはつまり、彼は死者=レイをほとんど完璧なまでに再現することができるということだ。その意味において、彼はメディア的存在だといえる。
彼女は言った。「どうしてかしら、私はあなたの近くにいる気がするのに、あなたはそれほど私の近くにいるように思えないの」
近さと遠さの矛盾なき共在。そこにあって、そこにないもの。さらに一般化して、それであって、それでないもの。言い換えれば、遠方のものを近傍のものとして、そこにないものをそこにあるものとして、それでないものをそれであるものとして現前させるものがメディア=媒介なのだ。
しかし、その一方が例えば、死者・異界・未来であるとき、メディアは極めてご都合主義的な物語装置へと堕してしまいかねない。一方の実在が不確定なときそれはもはやメディア=媒介ではないからだ。死者・異界・未来がそれとしてありうるのは、どれもが決して到達不能なもの、その超越性が保証されている限りにおいてだ。ゆえに物語装置がいともたやすくそれらを「媒介」し、現前-表象してしまうとき、その現前-表象されたものはナルシスティックな欲求の補完物に過ぎなくなる。
それでは、彼、タトル先生もまたそのような存在なのだろうか。彼女が喪失から立ち直るための。
もちろんそうではない。彼はレイを、彼女を再現することができる、と書いた。しかし、精確に言えばそれは「再現」ではない。再現とはいわばコピーであり、オリジナルの唯一性・一回性を奪ってしまうものだ。だが、彼が彼女にもたらすのは、かつてあったことの繰り返しであるにもかかわらず、唯一的・一回的な体験なのだ。
それは最後の朝、二人が朝食を終えて、レイが、最初の妻の家でピストル自殺を図る、そのために、自分のトヨタに乗る直前の二人のやり取り。突然、彼は一人で、レイと、彼女の声でそれを繰り返し始める。
そのような体験は、松浦寿輝プルースト失われた時を求めて』第4篇、「ソドムとゴモラ」の中の一章「心の間歇」を引きながら、「反復性」の体験と呼ぶものに極めて似通っている。

プルースト的な「間歇」の特異性は、貴重このうえもない「イメージ」の不意の湧出が、取るに足らぬ些細な信号をきっかけに、現実生活のクロノロジーとはまったく無関係なでたらめさで起こるところにある。「プルーストは記憶が悪かった」というベケットの名言があるが、「心の間歇」とは、時間の順序も方向の統覚も混乱しきった記憶のはざまをぬって唐突に奔騰する心情の高まりのことであり、プルースト的な「イメージ」空間は、その無秩序さと無根拠さとによって、超越的な秩序に統べられた「アウラ」の聖性から身を引き離すことになるのである。(松浦,46)

「心の間歇」は「再現性」の体験ではない。そこには、かけがえのない貴重さの概念が生き延びているからである。だが、その貴重さとは、「アウラ」においてのように、それが唯一一度かぎり起きた出来事であるがゆえのものなのでもない。「ふたたび」であること、時間の流れの中での「間歇」的な繰り返しであることこそ、プルースト的な想起の受難の核心をなす要件なのである。これを、きりなく増殖してゆく量的な「再現」と区別して、繰り返しによってのみ特権的な真実にいたる質的な「反復」と読んでもいいかも知れぬ。「心の間歇」は、「再現性」でも「唯一性」でもなく、「反復性」の体験なのだ。(松浦,47-48)

しかし、彼女が、そして私たちが彼を通して体験するものはプルーストのそれとは決定的に異なってもいる。「心の間歇」が些細な信号をきっかけとした「イメージ」の湧出、反復であるのに対し、彼女の体験にはわずかなきっかけもなく、気がついたときにはすでに始まっていた。そして、それは「イメージ」ではなく物質的な、それも他者による「再演」とでも呼ぶべきものであり、反復されるのは、声であり、「言葉」なのだ。
さらに後に、今度は彼女が彼を反復したことに気がつく。「それに触らないで、あとで私が片付けるから」
もはや「反復」に起源は存在しない。
他ならぬこの私を形作るはずの記憶が、私ではない別のものによって演じられてしまったとき、彼女に選択肢は三つあった。ひとつはすべてを科学的秩序のもとに意味づけること。ひとつは彼を他者として認めないこと。つまり、一個の物語装置としてみなすこと。そしてもうひとつは、「他ならぬこの私」などというものを一度放棄してしまうこと。
彼女はこのうちどれか一つを選択したわけではない。ほとんどすべての可能性を生きたと言ってもいいはずだ。そしてそれは、レイが死んでから、彼が現れてからのことではなく、ずっと、おそらくは最初からそうだった。

例えば、彼女はボディ・アーティストだ。彼女が演じるのは身体。思春期の男女の、ペンテコスト派の説教師の、ヨーグルトを食べて生きている百二十歳の老女の、そして妊娠した男の。これは彼、タトル先生とほとんど変わるところがない。一貫した、確固たる私を破壊して見せることが彼女の職業だったのだ。
だが、そのような彼女もまた、唯物論的・科学的思考法から自由でなく、同時に愛する人の死を前にしてその不可逆性を受け入れることができない。ボディ・アーティストであること、「私」でないことにさえ彼女は収斂されないのだ。

しかし、もしあなたが事を秩序立てて検証するのなら。頭を働かしてみよう、と彼女は考えた。そして冷静に分析してみよう。分解し、吟味しよう。
もしあなたが事を秩序付けて検証するのなら、次のように考えざるを得ないだろう。彼は知的な障害を持ちながら、ある特殊な領域には悲しいほどの才能に恵まれた男で、それは抜群の記憶力と物真似の才能なのだ。そしてその男が大きな家に隠れ、こっそりと聞いていたのだ。
それ以外に意味をなす説明はない。(121-122)

彼の死があなたを凄まじい恥辱に追い込んではいけないのか?服を引き裂くような激しい恥辱に?なぜあなたは彼の死に適応しなくてはいけないのか?あるいは、死別の味わいに屈しなくてはならないのか、唇を噛みしめて耐えなければならないのか?もし彼を手の届く範囲に留めておけるのなら――廊下を歩きながらその方法が見出せるなら――なぜ彼を諦めなければならないのか?
深く沈み込め、と彼女は考えた。それがあなたを落ち込ませるに任せろ。それが導くところについていくがいい。(142-143)

彼女は分裂する。科学的思考法と、ナルシシズムから距離をとるために。自らを二人称的客体として扱う彼女は、その客体化に自覚的である限りにおいて、自身から自由ではない。だが、彼女はそれをやめないだろう。それどころか、彼女はそれを物語り始めるだろう。空っぽの、開かれた窓から時が流れ込む部屋の中で。
一人の人間を定義づけることなど、どれほどの言葉を費やしても不可能なことだ。それは小説も同様である。小説を終わらせることなど本当はできない。それゆえに、その結末において人は語り始めるのだ。


参考文献

デリーロ,ドン 上岡伸雄訳 『ボディ・アーティスト』 新潮社 2002年
松浦寿輝 『平面論 一八八〇年代西欧』 岩波書店 1994年
和田伸一郎 『存在論的メディア論』 新曜社 2004年