金原ひとみ『ハイドラ』―わたしたちが求めるもの―

ハイドラ

ハイドラ


1.はじめに 内面の声と小説
たとえばあなたが物思いにふけるとき、あるいは漫画を、小説を、週刊誌を、そしてこの文章を読んでいるとき、声が聞こえてはいないだろうか。身体の、感覚を司るどのような器官によっても把握されないにも拘らず、確かに声として認識されているもの。その、いわば人間の内面を象徴するものとしての声は実際に空気を震わす同名のものと同じだろうか。それを確かめる術などないはずだが、自らの内側で呟かれた言葉を口を開いて発音したとき、テープレコーダー等の録音機器によって聞かされた自分の声に感じる違和感は通常ない。
小説はその誕生以来内面の声を記述してきた。小説という言語表現とそれは全く不可分の関係にあるといってよいだろう。主に一人称で語られる小説の場合、現実のわれわれと同じように、声の響く空間が内と外、二種類ある。地の文と呼ばれるものが前者、鍵括弧でくくられることの多い会話文が後者にあたる。そして小説の場合もまた、両者間の移行に違和感は生じない。


2.語りの無場所性/無時間性
2007年1月、『新潮』に発表された金原ひとみ『ハイドラ』は、その点特異な小説である。つまり、語りの内と外の関係に意識を向けられざるをえない。それではその内と外とは何か。外は先に述べたように会話文である。すると問題にしなければならないのは内であることに疑問はない。
小説において、語りはその小説を輪郭付けるものすなわち外延であり、語りを担うものは、それが人称的であろうと非人称的であろうと、その外延に位置している。小説をひとつの虚構「世界」とみなすならば、語りこそがその世界の限界である。世界にはフィジカルな形などないが、仮にそれを円形であるとしよう。そのとき、円周の、たとえば鉛筆で書いたときに生じる黒い線の幅はその面積に含まれないように、小説世界の外延もまたそこに場所を持たない。これを語りの無場所性と呼ぼう。
ここでひとつの逆転が起こっていることに気がつくだろう。小説においては、内面が外部を包含しているのだ。
ひとつ例を挙げよう。

「あの空き缶。外に置いてあるの。何のために置いてあるんですか」
と訊いてきたのだけれど、ぼくは正直に答えても何かおもしろくないような気がして、
「おまじない」
と答えてみた。そうするとよう子が今度は、
「何のおまじないなんですか」
と当たり前の調子で訊き返してきたから一瞬返答につまってしまったのだけれど、スニーカーを履く時間だけ考えて、
「見えないものとのコミュニケーション」
と、嘘でも本当でもないようなことを言って会社に出掛けた。
保坂和志 『プレーンソング』 p.61)

この小説もまた『ハイドラ』とは別の意味で語りと会話の関係が興味深いものなのだが、ここでは詳述しない。この引用中で注目してほしいのは、せりふの後に書かれた、「と訊いてきた」、「と答えてみた」、「と訊き返してきた」、「と言って」という箇所だ。これは、せりふの鍵括弧をさらにくくるものとして機能している。そしてそう語る「ぼく」ではなく、「ぼくは」と語る語り手は文中に存在しない。そして先に述べたように、「存在しない」ことによって小説を輪郭付けているのだ。
ここで指摘しなければならない重要な点がもうひとつある。それは、語りには場所がないのみならず時間もないと言うことだ。
ここで誤解してはいけないのは、語りは時間を描写しているが、つまり時間を流してはいるが、そこ、語りの位置に時間は流れていないということだ。引用文を例とすれば、「一瞬返答につまってしまったのだけれど、スニーカーを履く時間だけ考えて、」が時間の描写に当たる。時間は場所に基づいた行為・動きによって描かれるのだ。しかしそう語られているそのときはそこにはない。つまり、語りに「今」は存在しない。
ところが、『ハイドラ』においてはそうではない。


3.私たちが求めるもの
考察に入る前に、作品の紹介を簡単にしておこう。主人公の早希は新崎というカメラマンの専属モデルであり、かつ居を共にする恋人でもある。しかし二人の関係は異様なものだ。決して頻繁ではないセックスのときにしか触れ合うことはないし、ほとんど会話もない。そして、新崎が彼女を通して撮ろうとしているものは、「人が人の要素を失っていく過程なのだ」。それゆえに彼は彼女に内面の表出、特に表情を否定させる。彼女は新崎の欲望に応えるように摂食障害の一症状である、「噛み吐き」を繰り返す。
『ハイドラ』において描写される「噛み吐き」は以下のようなものだ。

温まったお弁当を開けると、蓋をすぐ脇において箸を割った。ハンバーグとご飯を一緒に口に入れる。じわりと湧き出した唾液が、顎の上下運動によって肉とご飯と交じり合う。口の中でそれが完全に元の形を失うと、隣の蓋に吐き出した。延々この繰り返し。機械のように、私は噛み吐きを繰り返す。顎ががくがくして、唾液が出なくなって、口の中がからからになっても、食べ物を口に入れて出してを繰り返す。蓋が唾液と食べ物でいっぱいになると、ビニール袋に放り込む。コンビニ袋には、吐瀉物のような元食べ物が溜まっていく。
金原ひとみ 『ハイドラ』 p.32)

タイトルの『ハイドラ』はギリシア神話に登場する、九つの首を持つ怪物、そして同じ名を持つ刺胞動物ヒドラ科が由来である。生物としてのヒドラは、かつてイソギンチャクと同じ腔腸動物に属していた。腔腸動物の消化器官は開口部が一箇所、つまり口と肛門が一緒という単純な構造を持つ。それゆえに噛み吐きをする身体を連想させずにはおかない。そして彼女自身自らを怪物とみなすのだ。(以上 斎藤の記述を参考 斎藤 p.252-253)
彼女と新崎の関係、ハイドラの特異性を示す材料として一部引用する。

「もしかして、新崎さんにそれ以上痩せろとか命令されてんの?」
「そんなこと言うわけないでしょ。人を奴隷みたいに言わないでよ」
「だって早希、新崎さんが自殺しろって言ったら、しそうだもん」
 笑いながら、残酷なことを言うやつだ。あながち間違いとはいえないから、するかもね、と言って肩をすくめて見せた。常に私は、彼の意に沿った意思しか持たない。彼がやめろと言ったらなんでもやめる。やれと言われれば全てやる。彼の望みがそのまま私になる。いつか付き合っていた男に言われたことがある。自分の出した要求すべてに答えて、どんどんもとの姿を失っていくようで怖い、と。そしてその後彼は何かを思い出したように「擬態する昆虫」と呟いたのを覚えている。
 目の前に並んだ料理をそれぞれ一口ずつ食べると、後は飲むほうに徹した。モデルは大変だねー、と言う美月の言葉にはきっと、嫌味と同情が入り混じっている。
「まあでも、蘭ちゃんよりましだよ」
「蘭ちゃん?別にやせてないじゃん」
「あの子、過食嘔吐だから。食べた後がんがん強い酒飲んで、それで吐いてんだって」
「……そうなの?」
「うん。痛々しいよねー。早希は吐いたりしないの?」
「私は、最初からそんなに食べないから」
「心配しないの?彼」
「しない。彼は自己責任、の人だから」
「早希には最悪の組み合わせだね」
苦笑しながら、その苦笑が苦笑ともいえないほど歪んでいることに気づいて、無表情を作り込む。顔を上げて、細長いシャンパングラスからまたシャンパンを一口飲んで、窓際の席を見つめる。テーブル席についたカップルが、隣り合わせに座っている。見えないけれど、彼らはきっとテーブルの下で手を握っているんだろう。私は、付き合い始めてから三年、新崎さんとテーブル席で隣り合ったことは一度もない。羨ましい、みっともない。両方が湧き上がる。でも、みっともないの方は、新崎さんがそう思っているから、私もそう思わなくてはならないと、刷り込まれた結果の感情だ。
(金原 p.29-30)

これはわれわれの現実の体験に似通っている。われわれは会話の最中、「うわのそら」になること、頭の中の思念に注意が向き、他者の声ではっと目が覚めたようになることが、また逆に、他者の声が響く空間から奥まった場所に退いて、声が遠くから聞こえるようになることがあるだろう。そのとき、私の内側の声を聞いている最中にも時間は流れているのだ。私=語り手にそこで時間が流れているということはつまり、彼女が存在している、すなわち小説の外延ではないということだ。そのことによって、彼女自身が会話文に参入するとき、彼女は自己を他者と同水準の外部=世界の内部へ投げ出さなければならない。そしてその間、語り手という特権的な私の座は空虚となる。それは、早希が「私は」と、その語りの現在においては語らないことによって生じる。(引用文中のそれは、時制的に一般化されている)「私は」と語るとき必然的に付随する、決して名指すことのできない、超越的な「そう語るもの」の水準がそこにはなく、それゆえに語りをやめることによって、私もまた消失するからだ。
では、何がそれを可能にしているのか。早希=私が小説の語り手であるにもかかわらずその外延足り得ないのは、つまり早希が語りの現在において「私は」と発語できないのは、彼女の外延が彼女自身ではないからだ。その外延とはもちろん新崎のことである。つまり彼女にとって世界とは新崎なのだ。「私は」と発語する特権は新崎にあるのだ。そしてそのことは、彼女のコミュニケーション障害として表現される。それはもちろん、彼女の「噛み吐き」に他ならない。これをコミュニケーション障害と呼んだのは、それが内/外の関係の異常だからだ。入り口と出口が同じということはそこに内側も外側もなくなってしまっていることと等置される。それゆえに早希は、世界に対するリアリティを喪失していた。しかしその世界感覚は、パンクバンドのボーカル、松木によって変革される。
早希が松木に初めて出会うのは、彼らのライブの観客としてだ。そこで、彼女は彼と繋がる。

次の瞬間ギターが始まって、それに続くようにしてベースとドラムも始まった。まためちゃくちゃに、人々が動き出す。メロディーからサビに入ったとたん、いっせいに観客の手が挙がる。無数に挙がった手の隙間から見えたボーカルは、神みたいだった。無数に伸ばされた手と、彼の心臓が、赤い糸で繋がっているようだった。繋がりたい。その一心で、私も両手を挙げた。思った。救いはない。でも繋がっているということだけが、曲を通して伝わった。(金原 p.41)

松木は新崎と全く真逆の存在だ。彼は彼女に表出を要求する。新崎が否定する当のものを。

テーブルの下で、私の右手を握ったまま離そうとしない松木さんをじっと見つめたまま、握られている手を振ってみると、首を傾げて何?とでも言いたげな顔をする。そのとぼけた顔に、弱々しい笑みがこぼれた。
「今のかわいい」
「なに?」
「今の困った感じの顔かわいい。もっかいやって」
「出来ないよ」
「何でー。ちょーかわいかったんだって。もっかい」
「出来ないよ、そんなの」
「あ、その顔その顔。かわいい」
(金原 p.56-57)

早希は松木といる間、間違いなく幸せだった。決して自身が制御することの出来ない感情に触れようとする彼は、外部への通路だった。一度は新崎のところを抜け出して松木の部屋で暮らした。ところが、彼女は戻った。確かな、諦念にも似た決意と、わずかに捨てきれぬ松木への希望を携えて。

分かっているもう二度と、私は松木さんの元に戻れない。でもちょっとした何かが、たとえば時計の秒針が左に回り始めたり、灰皿の中から蟻が一匹出てきたり、いや、例えば私のデスクに置いてある依頼書か何かであろう一枚のプリントが、エアコンの風によってはらりと床に落ちたり、そういうひょんなことが起こったとしたら今すぐ立ち上がって松木さんのマンションへ駆け出すだろうと分かっていた。
(金原 p.134)

そのとき初めて、新崎がわれわれの前に声と身体を持って現れる。このことは、早希が新崎とそれぞれ別の「私」として対峙しようとする試みでもある。彼女はまなざしによって、新崎との間に通路を開こうとさえする。「すでにカメラを向けている新崎さんの、レンズの向こう側にある瞳が焼けてしまえばいいと、目からビームを出そうと必死に見つめる。」(金原 p.135)

この間、早希は、松木が夢を語り、それを聞いていた幸福な過去を想起する。しかし、それは新崎の一声によって中断される。

「笑うな」
 その瞬間。私の微笑みが消えて、私は思う。新崎さんは、今こうしてこの写真を撮るために、松木さんを私に与えたんじゃないか。新崎さんは、私がこのメゾネットタイプのマンションへ必ず舞い戻ってくると、知っていたんじゃないか。本当は、全てが、新崎さんの思い通りになったんじゃないだろうか。
「いいね」
 ぱしゃぱしゃという、シャッター音が速度を増し、楽しげに響き渡る。男が体勢を変えてカメラを構え直す。腰元に入っていた力が抜けて、がくんと姿勢が悪くなったのが分かった。そのときエアコンがぶいんと大きな音を立て、ひときわ大きな風がデスクの上の紙を揺らす。
(金原 p.136-137)

小説はここで終わる。もし、このあと紙がテーブルから床に落ちたとしても、彼女は駆け出したりはしないだろう。もはや松木も、新崎という世界に包摂されてしまったのだから。彼女の、そしてわれわれの求めるものが、自由でも幸福でもないとしたらそれはいったい何なのか。『ハイドラ』はかくも困難な問いをわれわれに突きつけるのだ。

参考文献

保坂和志 『プレーンソング』 中公文庫 2000年
金原ひとみ 『ハイドラ』 集英社 2007年
斎藤環 「腔腸動物メタボリズム」 『文学界 2007年 7月号』 文芸春秋

ボルヘスのわたし―詩でも小説でもなく―

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

不死の人 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)


ボルヘス論としてはかなりいい加減だけど、考える要素は結構あると思う。少なくとも僕とボルヘスの関係についてはうそを言ってない。

1.はじめに                                     
 私はボルヘスが書く「小説」を読むことができない。読み通すことに時間がかかる、とか生理的に受け付けないとかそういうことではない。それはどのような読めなさかといえば、一行を読んで、あるいはそれを読み終わる前に、それまでの記述をほとんど忘却してしまうというというきわめて不可解なものだ。それは、ある場所から出発して目的地までひたすら直線の道のりを歩いていて、道に迷ってしまうような体験であるといってもよいかもしれない。また、海馬の損傷によって長期記憶の機能が損なわれてしまった生とも類比的であろう。ボルヘス自身もまた、覚えられないがゆえに長編小説は読まない、といっているようだが。この「ボルヘス的」ともいえる不可解な読書体験の原因への探究心をひとつの力としつつ、いくつかの短編を、また、それらについての文章を読みながら気がついたのは、彼の「小説」は一般的な小説とは明らかに異なり、それはほとんど詩の領域にあること、しかしそれは詩そのものでは決してないということであった。
 それでは、小説と詩との差異とはいかなるものか。そしてボルヘスの「小説」は両者間のどのような位置にあるのだろうか。

2.小説/詩/迷宮
 文章を歩行に擬してみると、センテンスの一つ一つはその一歩一歩(みぎ・ひだり・みぎ・ひだり)。読者にテーマの方向性を示唆する曲がり角。しばし思考を要請する信号待ち。ストーリーの盛り上がりとその着地は上り坂下り坂。さまざまなリズムがありそれらは細かな差異を生む。つまり過去、現在、未来と時間をリニアにおし進めていく。しかし、それだけでは小説にはならないようだ。つまりそれは単なる散歩=散文に過ぎない。ここで二人の小説家(古井由吉高橋源一郎)のことばを引用する。

どんな行き方であれ、作品の出発点と着地点の間のどこかで境を越える。それが小説だ、とわたしは思っている。境を越えるというのは差異を渡った、その跡を記す、ということになるでしょうか。(古井 p.152)

一番重要なのは、その作品を通過することによって、読者がその作品に入る前に比べて、一つ経験値が増えることです。それが可能なのは、読者が作品のなかで、その作品の構造に沿って自然に物を考えることができるようになるからです。簡単に言ってしまえば、小説は認識の芸術です。作者のトレースした言葉の運動によって読者の方に、ある一つの認識が起こってくる。そういう構造になっています。ですから、入り口と出口があるものが小説なんです。(高橋 2003 p.189)

 小説には決定的な、もはや「リズム」には還元できない変調、越境、跳躍がある。それが小説を小説たらしめるもの、というわけだ。それでは詩とは何か。

詩のいちばん目立つ特徴を忘れていた。
改行するということだ。
(中略)
詩人たちは(おそらく)、ことばをつむぎながら、角々で曲がれ、といっているのである。
(中略)
なぜ、詩人たちは、ことばを追いかけながら、そんなに、しょっちゅう、角を曲がるのか。
それは、どこを歩いて、どこへ行こうとしているのかを、確認するためだ。
それから、いつも(ことばの角を)曲がってばかりいるから、必然的に、ことばに用心深くなるからだ。
さらにいうと、曲がってばかりいると、いったいどこを歩いているかわからなくなるので、そのとき歩いている道をしっかり確かめながら歩くようになるからだ。(高橋 2007 p.220-221)

 高橋はここで「改行」を「曲がること」に喩えている。それには納得がいくのだが、引用の後半、なぜ曲がるのかについての説明には不十分さを覚える。これでは、曲がらない=改行しない詩には当てはめることができないし、ただ改行してあるばかりの詩もどきの文章と詩の違いもわからない。私は改行=曲がるという作業の本質に、断絶による連続という機能があるのではないか、と考えるのだが、このことはわたしがボルヘスの「小説」に感じた違和感に関連する。引用しよう。

あれはたしか二年前のことだったが、ガノンがグアレグアイチュから手紙をくれて(その手紙は失くしてしまった)、ラルフ・ウォルドゥ・エマソンの「過去」という詩の、おそらくは最初のスペイン語による翻訳を送ろうとして言ってよこし、追伸に、わたしも多少思い出のあるドン・ペドロ・ダミアンが、数日前に肺充血で亡くなったと言いそえてあった。(ボルヘス 1996 p.103 )

 一見全く「詩的」なところのない文章かもしれない。たしかに読みにくいが、それは聞きなれぬ固有名詞の連続によるものに過ぎないのではないか、と。しかし柳瀬尚紀はここに複雑な入れ子構造を読み取る。

手紙を受け取ったという過去、それを紛失したという過去、ダミアンが死んだという過去、エマソンの詩「過去」、その(未完の)翻訳である、すなわちもうひとつの「過去」――そしてさらに読者は手軽なアンソロジーには載っていないエマソンの「過去」なる詩の実在性をいぶかしがりながらも、「神々すら過去を揺り動かすことはできない」という行(ライン)を発見するかもしれない。(柳瀬 p.25-26)


 この入れ子構造こそ、私がボルヘスを読めない原因であり、それは、改行というひとつの切断によって、連続性を保持する作業を行わなかったために生じたものなのではないだろうか。上に引いた文章はその入れ子構造ゆえに、散文では通常ありえないほどに高密度な文章となっている。そしてこの構造が、柳瀬が引くベケットの「フィネガンズ・ウェイク」評、「ここでは形式が内容であり、内容が形式である」のように、ボルヘス作品の主要テーマとされる「無限」を生み出すのだ。

3.無限/私/永劫回帰
 この無限の入れ子構造は、円環に帰結する。しかしそれはフィクションという領域に自足しない。あらゆるテクストを、そしてあらゆる「私」をその一部として包含していく。ボルヘスを読む私、この文章を書く私はすでにボルヘスによって書かれてあるのだ。決して外部を形成することがないそれは、デカルトが想像した「悪霊」のような超越者の存在する余地すら残さない。そう、正確にいうならば、ボルヘス個人もまたわれわれの起源ではなく、この私と、それが〈私〉であることにおいて同列なのだ。この〈私〉とは人格=記述可能な性質の集積としての「私」でも、統覚的主体=無規定な世界に一つの表れをもたらす世界の集約点としての「私」でも、身体、あるいは心理・記憶の連続性によって同一性を保証される「私」でもない。それは常に今であり、どこにいてもここであるようにその外側を積極的に設定することの不能な、想定しようとすればすべて想像のうちに回収され、ただ夢、あるいは文学のような回路を通じてのみ移動することのできる私のことだ。しかしそのような移動もまた事後的にそれが私でなくなった後に把握されるのみで、外部のないことに代わりはない。ところが、ボルヘスは、まるでその回路が開きっぱなしになってしまったような感覚をわれわれにもたらす。そのことによってあらゆる他者は、その他者性を失い、世界は〈私〉に満たされてしまう。そしてそれは澁澤龍彦が「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」を引きつつ、「あり得るはずがない」といった奇妙な独我論的感覚のことなのだ。

今日、トレーンの教会の一つは、プラトン主義にならって、これこれの苦痛、これこれの黄緑色、これこれの温度、これこれの音等々は存在する唯一つの実在であると主張している。全ての男は、交接の絶頂時において同一の男である。シェークスピアの一行を繰り返すすべての男は、ウィリアム・シェークスピアそのひとである。(ボルヘス 1993 p.40)

ここでボルヘス独我論が奇妙な反転を示していることに私たちは気づかざるを得ないだろう。彼は個人としてのアイデンティティーを認めないのであり、人格の独立を認めないのである。そもそも、そんな独我論がありうるだろうか。あり得るはずがないのだ。バークリーやヒュームから出発しながら、彼とは正反対の、一種晴朗な澄みきった諦念にみちた、ニーチェ風といえば言えなくもないような、奇妙な永劫回帰的世界にたどりついてしまったかのごとくである。(澁澤 p.35)

それはあくまで「永劫回帰的なもの」にすぎない。それもまた積極的に主張されれば、田島正樹の言うように別のものになってしまうだろう。(「もしニーチェの回帰思想が、真理についての一般論を説くものであったとしたら、この思想自身は回帰の欄外に立つものとなってしまうだろう」 田島 p.215)結局のところ、われわれがボルヘスを通じて体験するものが何なのかはわからない。しかしこれだけは言えるかもしれない。「私」の外側に現実そのものがあるとして、その現実に到達することの不可能性は私にとって不幸ではない、と。ボルヘスの作品が決して陰鬱なものにならないのは、ボルヘスがその不可能性を楽しんでいるからに他ならない。それはまさしくブランショの言うような意味で、われわれが「不死の人」であるということでもあるのだが。

想像的なものの本質であるこのうえない無際限性は、Kがいつか「城」へ至りつくことを阻むのであり、また、アキレスが亀に追いつくことを永久に阻むのだ。そしてまたおそらくは、生きた人間が、彼の死を全く人間的なものに、それゆえにまた不可視なものにするような地点で、おのれ自身に追いつくことを阻むのである。(ブランショ p.149-150)


参考文献

ブランショ,M 粟津則雄訳 『来るべき書物』 現代思潮社 1968年
ボルヘス,J.L. 鼓直訳 『伝奇集』  岩波書店 1993年
          土岐恒二訳『不死の人』 白水社 1996年
古井由吉 『すばる 2008年 2月号 (「書く生きる」)』 集英社 2008年
澁澤龍彦 『ボルヘスを読む』  国書刊行会 1980年
田島正樹 『ニーチェの遠近法』 青弓社 2003年
高橋源一郎 『すばる 2003年 5月号(「ボルヘスナボコフの間で」)』 集英社 2003年
       『文学界 2007年 11月号 (「ニッポンの小説」) 文芸春秋 2007年
柳瀬尚紀 『ノンセンソロギカ』 朝日出版社 1978年

ラテンアメリカ文学・短編三編

「ぼく」とはなにか―コルタサル山椒魚」―

 単純に人間が別の動物になってしまうお話ならば、そこには特別興味を引くものはない。しかし、この『山椒魚』には古典的な哲学的問いが生々しく表現されている。
 その問いというのは、「ぼく」とは何か、といっても文法上の人称、あるいはアイデンティティについての議論に還元しきれないものであり、それを正確に言い換えるならば、「ぼく」と語るそれはいったいなんなのかという問題だ。
 物語を語る途上の山椒魚たる「ぼく」は、かつて人間として水槽の中の生き物を眺めていた「ぼく」と心理・記憶的に連続している。「ぼく」の同一性を保障するのはまさしくそれであり、語りのなかで、回想された過去の体験の主体を同じく「ぼく」と呼称できる根拠でもある。小説の大半部は、異なる時点の「ぼく」の間の往還と、山椒魚の描写、そして奇妙かつ空虚なそれに飲み込まれてしまいそうな感覚が描かれる。それだけでも十分スリリングなのだが、語りが山椒魚に「ぼく」がなったところまでたどり着くと、はるかに異様な事態に気づかされる。それは、山椒魚を水槽の外から眺めていた「ぼく」が山椒魚になった後にも、人間としての「ぼく」の身体を持ち、「ぼく」を眺め続ける誰かが存在するということだ。
 確証を得ることはできないが、もし彼が、「ぼく」が山椒魚になるまでの記憶を持ち、その連続が断たれていないとすれば、「ぼく」の語りを保障していたはずの心理・記憶の連続性は信用を失う。そこで「山椒魚」の読者たる私は気づかされる。水槽の向こう側などに行かなくとも、そのような信用はどこまでも疑いえることに。そして、にもかかわらず疑っている何か、「私」と語る何かは常に存在することに。


死者の死―キローガ「彼方で」―

 死という未知=彼岸への恐怖は、それについて語ることをその解消策としてしばしば要求する。それが解消策として機能するのは、決して既知にならないそれを「未知のもの」としてパッケージングしてその未知性を隠蔽することが言葉にはできるからだろう。しかし、少なくともこの「彼方で」はそのような方法は採用していない。それほどキローガの死に対する恐怖は大きかったと見るべきかもしれない。例えば、前半頻発する「死」。
 「私は死ぬことを決心したからです」「死ぬ方がましだわ、そう、一緒に死ぬのよ」「すぐに私たちは 死ぬんだわ!」
 これらの死はパッケージングされた死に他ならない。なぜなら彼らはその死後、死者として生きつづけているからだ。ところが、語り手と恋人の二人の死が描かれた後両者は気づく。いまだ死んでなどいないということに。「知ってるくせに!私、死ぬのよ!……」という叫びは、死がいわば二重化されていることによって、新鮮な恐怖を感じさせる。そして最後に語り手は気を失ってしまうのだが、ここではそのことと死がほとんど等価である。
 死に限らず言葉は未知を既知に飲み込もうとする。しかし、それがなされたとき言葉はある意味で死んでしまうのかもしれない。小説は言葉の死から逃れるためにもほかならぬ言葉によって書き続けられねばならない。


作品と読者をつなぐ地平―ボルヘス「アル・ムターシムを求めて」―

小説は常に唐突に始まる。
「フランシスコの足音がコツコツと廊下に響き…」「ぼくはいつもパウリーナを愛していた。…」「私は絶望していました。…」
しかし、これらの唐突さは私を置き去りにはしない。私とその始まりは「小説」という約束を前提としてつながっているからだ。ところがボルヘスが書くいくつかの作品、例えばこの「アル・ムターシムを求めて」はどこまでも私を後方に取り残し、決して追いつくことができない。私はボルヘスという書き手がそれが一見、実在の批評文であるかのような小説を書くということを知っている。それにもかかわらず、その文章は私との間に小説という約束を取り結ぶことがない。それは単純に私が彼の作品を読むための力がないせいなのかもしれない。そうだとすれば、作品と私の共通の足場のようなものを、ボルヘスの作品においてもまた設定できるということになる。しかし、これはあくまでも仮説の域を出ないが、ボルヘスが目指したのは暗黙のうちに交わされている約束を破棄し、唐突にどころか何歩も先の場所から小説を始めてみることではなかったか。果たしてそのような試みが意味することはなんなのか。そしてボルヘスの場所から見える世界はどのようなものなのか。私がこれから彼の作品を読む動機はそのような疑問であるだろう。

決定性決定不可能性をめぐるジレンマ

旅路の果て (白水Uブックス (62))

旅路の果て (白水Uブックス (62))

柴田元幸の弟子T先生の授業にて。ブコウスキー『勝手に生きろ!』とか訳されてます。教科書はフランク・レントリッキア編『現代批評理論』(正・続)平凡社


1.はじめに
授業では決定性/決定不能性の対立における後者が主に取り扱われた。しかし本稿では、問題をもう一歩先に進めたい。
デリダやド・マン、言語一般に関してはソシュール以降、すべては単なる差異の体系であり、そこから生じているように見える価値や意味は恣意的なものにすぎず、真の、絶対・究極的なそれは存在しないとされた。
しかし、われわれはそれにもかかわらず、特定・有限の読みに縛られ、どの作品が優れ、また劣っているのか判断している。つまり、われわれにとって自然な行為遂行・価値判断が、厳密に考えれば決定不能であるにもかかわらず、事実なされてしまっていることのジレンマに陥りかねない。このジレンマ、あるいはそれが通常起こらないことが、「決定不能性」という指摘がもたらす問題の本質ではないだろうか。 

2.オタクの選択『動物化するポストモダン
この問題のあらわれを、東浩紀が紹介する「オタク」の消費行動に見ることができる。(『動物化するポストモダン』)東によれば、『エヴァンゲリオン』以降のオタク系文化の中心は、マルチストーリー・エンディング形式のノベルゲーム化した「ギャルゲー(美少女ゲーム)」であった。その特徴はそこで消費される物語が、起源を確定できない二次創作の連鎖による産物であること。そして、受け手の欲望を触発するキャラクターの類型的特徴、すなわち「萌え要素」へと分解できることである。このような分析を通じて東は、オタクたちは無限に増殖する「萌え要素」を「動物的」に消費しているだけで、間主体性を生きていない、つまり主体的な選択を回避していると述べる。
しかし大澤真幸は、東がその意図に反して示してしまっていること、すなわち、より高次の水準でオタクたちが選択を行っていることに注目する。ここで行われている選択とは、特定の物語を選択しないという選択、言い換えればすべての物語を包括しうる大きな物語の選択である。大澤は次のように述べる。

カント哲学の用語を使って、オタク的な対象―データベース―とは、いってみれば「超越論的対象」が直接に現前してしまったような状態である、と総括することもできるかもしれない。カントは、対象に関して統一的な概念を得るためには、「何か一般としてのみ思考されうる」対象が必要である、と論じている。(中略)それは、感性的直感に対して現象することはない。現象したとすれば、それは、常に「何ものか」として特定されるほかないからだ。(中略)超越論的対象は、どのような述語づけに対しても開かれた「何か一般」であるがゆえに、普遍的対象である。オタクは、この本来、直接に現れるはずのない超越論的対象を、まさにデータベースの形式で所有している(との幻想を抱いている)のだ。(大澤 p.78-79)


3.バース『旅路の果て』
選択の主体は徹底的に抽象化され、それゆえに空虚化する。自らを選択の主体として定位することを回避した上でなければ、実際の選択は成され得ない。これは現代日本の「オタク」という特異な現象に還元しきれない。その前段階を、われわれはJ・バース「旅路の果て」に見ることができる。一読してその奇妙な印象に、誰もが記憶してしまうであろう冒頭「ある意味で僕、ジェイコブ・ホーナーだ。」という一文にそれはすべて集約されている。主人公ジェイコブは、緊張病と思しき症状、すなわち突発的にあらゆる行為・選択ができなくなる病に悩まされている。その克服のために彼が取った態度が、自らが自らであることを留保すること、すなわちその固有名を決定不能性に放置すること。そしてそれは、実際に行為する主体の空虚化をもたらす。しかし先にも述べたように、主体は抽象的な次元へ隠蔽されただけであり、消滅したわけではない。これを「前段階」と位置づけたのは、ジェイコブはオタクたちと違って、決定主体の隠蔽に自覚的であることを免れ得なかったからだ。
このような問題を跳躍・忘却することによって解決するのはたやすい。しかしそれはまた別の問題を生み出すだろう。一度それを問題として認識してしまった以上それをなかったことにはしたくない。結局はそのジレンマを生きることより先には行けないかもしれないが、それを自らの課題として残しつつ、本稿を終える。

参考文献
東浩紀動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2001年
大澤真幸『帝国的ナショナリズム青土社 2004年
ジョン・バース『旅路の果て』 白水社 1984

「気球クラブ、その後」の「その後」

気球クラブ、その後 [DVD]

気球クラブ、その後 [DVD]

 「ノリ」とか「テンション」とか「空気」とか「キャラ」とか、そういった言葉が嫌いだ。「クソが!」と思う。そんな「クソが!」な人たちばかりが出てくる映画。少なくとも前半までは、ただそれだけの。役者の演技、台詞は薄っぺらで中身がなくて、それでも雰囲気を淡くして、カメラの存在感を殺せばストーリーに没入できなくもないものを、カット割りや照明の不自然さが気になって、そのような見方も拒否される。だからといって、何か意図を読み取ろうとしても、そんなものはどこにも見当たらない。薄っぺらな人たちが、薄っぺらに騒ぎ、交わり、薄っぺらな世界を生きる。そんな映像が延々と一時間は続いた。期待を裏切られる準備はできていた。「紀子の食卓」はフロックだった。奇跡のような間違いだったのだ、と。

(以下一部内容の紹介あり)

「気球クラブ、その後」は気球に偏執的に取り付かれた男、5年前に自然解散した気球クラブのリーダー、村上の事故と、それを伝える元メンバー同士の携帯電話を介したやり取りの場面から始まる。気球クラブの活動は約半年。気球を打ち上げて、それを車で追って、飲んで、騒いで、飲んで、騒いで。そのうちの一ヶ月間だけ参加した北次郎を中心化して物語は描かれる。村上の彼女美津子に抱く下心。「気球なんて本当はどうでも良かった」そんなやつは次郎だけじゃなくて、おそらくは半数以上はそう。薄っぺらな登場人物たちのなかで、ただ永作博美演じる美津子だけが質感を持って迫る。回想シーンを交えながら、結局全員に連絡がつき、村上を偲ぶ会として5年ぶりに元「気球クラブ」のメンバーは集まる。そして、飲んで、歌って、騒いだ末にそれぞれの連絡先を抹消して本当に気球クラブは解散する。
気球クラブ(本)解散の一年後。それぞれの生きる日常、ふと見上げた空に気球が見えて。ただそれだけのシーンだ。けれど、彼/彼女らのまなざしが、彼/彼女たちにとって、それは、それの想いおこさせる光景は、本当に大切な何かだったのだと、突然僕に思わせたのだ。僕にとって空虚で、空っぽで薄っぺらで、体も、心も、思考も何にもない、ただ騒々しいだけの「気球クラブ」は、彼/彼女たちにとっては確かにその瞬間「何か」だったのだ。
僕たちは好きな人、興味のある人、尊敬する人、もっと関わりたいと思う人たちにいろんなものを見る。知識、経験、秘密、可能性、とかいろいろ。もちろんどっちが先かはわからないけど、それらは彼ら自身ではなくて、僕らの欲求の投影、幻想にすぎない。つまり、僕らにとって親しい(実際に親密であるとは限らない)彼らは、それが親しければ親しいほど、僕ら自身なのだ。説明になってないけど体感としてそうなのだ。近づけば近づくほど遠ざかる、到達不可能性こそが彼ら、つまり他者の本質だとすれば、純粋な他者は空虚なものとして現れないだろうか。理解も共感も絶した、生きる世界を異とする他なるものとして。
僕にとって「気球クラブ」の面々はまさにそのような意味での他者だった。ところが気球を何気なく見上げた空に見つけた、そのまなざしによって、僕の世界と彼らの世界はわずかに、けれど確かにつながったのだ。
そして、ラストシーン。意味としては大澤真幸が幾度も繰り返す、サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」におけるゴドーとは?それを待つこととは?という問いとその答えなのだが、というか僕にはそうとしか映らなかったのだが、誰もわからないと思うので(と言うか僕には要約・説明できないので)、簡単に、けれど幾分不正確に言えば、結局やってこなかった誰かは、届かなかったメッセージは、知られることのなかった気持ちは、想起されることのない記憶は、つまりなんなのか。それは空虚だ。無といっても良いかもしれない。しかしそれは、純粋な意味での他者と同じあり方だ。つまり、 そうである(ない)にもかかわらず、「何か」なのだ。
そのような「何か」について思う。けれど、それは誰か他の人に向かって話すことのできるようなことではない。ところが、極まれに自分と同じような人に出会う。それももちろんひとつの幻想でしかないのだけど。
気球クラブのメンバーが飲み会で歌うのは、荒井由美の「翳りゆく部屋」。これがエンドロールでもう一度流れる。劇中では「クソが!」な感じだった歌が、終わった後には口ずさまずに入られなくなる。この変化がこの映画のよさを象徴していると思う。

身体に対する態度

Coyote2007-07-24

 僕の記憶と想起の能力がいかに信用ならないものであるかを痛感。描写力のなさも。書くのは楽しいけど。以下は授業で提出したレポートの転載。
                                                 
 7月23日20:00より港区西麻布、六本木ヒルズ近くのイベントスペース「Super Deluxe」にて、川口隆夫 と 山川冬樹 によるパフォーマンスアート・ショー『D.D.D. -私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか-』を鑑賞した。
   地下一階にある会場に入っていくと、音楽が聞こえ、横一列に人だかりが見えた。流れていたのはニルヴァーナのようなへヴィ・ロックだ。コンクリート打ちっぱなしで天井にはライトや音響機器の配線、半透明のゴムチューブがぶら下がり、黒い鉄骨もむき出しになっていた。人だかりの向こう側が見えるところまで移動すると、両腕を左右いっぱいに伸ばした程度の長さを四辺としたテーブル(実際は120cm×120cm)を中心にして、コの字に観客が座っていた。最前列とテーブルまでの距離は2メートルもないだろう。とても近い。観客がいない左側にはドラムセットとマイクスタンドのようなものが置かれていた。
  しばらくして音楽が止まった。左奥から全身真っ白な男が登場。滑稽だ。顔にはプロレスのマスク。肌が見えたのは目元・口元だけだったろうか。テーブルの対角線上を前転。それを交差するようにまた前転。何度か繰り返した後立ち上がり、叫んだ。呼応するように爆音ノイズギター。かき鳴らしているのは臀部まで髪を伸ばした上半身裸の男。耳障りではない。足元から腹の奥に響く音だ。時折踵でシンバルをぶったたく。連打。ひどく興奮してきた。彼も叫ぶ。というよりは奇妙な声を発する。暴力的な読経とでも言えばいいだろうか。後にわかるのだが、これは「ホーメイ」なのだった。どうやら挨拶代わりだったらしく、 照明が暗くなって右側の壁に赤く文字が書かれる様子が投影された。「Round1」直ちに消されて、残る明かりはテーブル真上の弱々しい電球のみ。本編が始まるようだ。
 テーブルの上にぼんやりと白い肉体が見える。その動きは窮屈で、脱皮を思い起こさせる。別の生き物のようだ。心音とマイクを通した呼吸の音。まっすぐに直立すると、それはただの滑稽な一人の男の肉体に戻る。が、直ちに拘束的な人間の形ではないような動きへとまた戻る。規則的に鳴り続ける心音と呼吸音のせいか、脱皮というよりさなぎの中で身体を再構成している生き物に見えてくる。また直立する。人間に戻る。しかし今度は精神的な苦悩、不自由を感じさせる。本編が始まってからずっと感じていたのは、目の前で動いているのは人間の身体なのだが、それが異様に大きく見えるということ。
  照明が消える。拍手と歓声。Round1が終わったようだ。照明が戻る。テーブルの脇に座って水を飲む白い男。呼吸はかなり荒い。やはり一人の人間だったのだということを実感させられる。そしてまた、これもパフォーマンスの一部なのだと思う。
  時系列に沿って書いていきたかったが、そのように記憶していないので、印象に残った部分を記述していくことにする。
  テーブル右奥から対角線上に光線が刻まれる。このとき鳴っていたのはひたすら激しい音楽だったか。ホーメイ、ノイズギター、ドラム。光にさらされた身体は、恥ずかしさを感じさせる。このときすでに腕と脚は露出していただろうか。個々の筋肉は美しい。しかし何より美しかったのは、奥の壁に大きく映し出された影。生身の身体に付随する滑稽さ、弱々しさは完全にそぎ落とされ、その上で生命感は失わない。
  うって変わって、美しい音楽が流れると、身体も美しく見えてしまった。長音で構成されたエレクトロニックな音楽としか形容できないが。
  心音にあわせて明滅するライト。激しい動きも静止画像の連続になる。圧巻。

 踊り手は全裸でテーブルの上に立ち尽くす。脚でリズムをとると、陰茎もそれに合わせて上下する。片腕を前方に伸ばし、骨から肉を分離するように震わせる。右腕なら右半身が、左腕なら左半身が、その余震で震える。それだけの動きが、特別に体に残った。 
  それまで一言も発しなかった音楽担当の男が、心臓の解説を始めた。生物の時間に見た心臓の解剖図が映し出される。右心室、左心室、右心房、左心房。心臓の一部分が一定のパルスを発している。血液の逆流を防ぐために弁は開いて閉じてを繰り返す。それが心音。「私の心臓はあと何回鼓動して止まるのか。」どこかの省庁が発表している「生命表」とやらが映し出される。大量の数字が並んでいる。現在の年齢と、寿命の期待値が書かれているそうだ。問いの答えは、分換算した期待値と、毎分の心拍数の積。鳴り響く心音。テーブルの上に踊り手が、たらいを置き、頭上に水のパックを取り付ける。開栓。計測スタートの合図だ。心音とそれを数える声。同時に踏み台昇降を始める踊り手。上方からは水が流れ落ちる。「イチ!ニィ!サン!シィ!」リズムはまるで合わない。数え間違いは許されない。鳴り続ける心音。水が止まる。計測結果は89。問いの答えは、いくつだったのか。 
  右の壁に口を大きくあけた男の顔が映し出されると、映像はその中をためらうことなく進んでいく。胃カメラだ。ピンク色のひだひだ。血管のわずかに浮くその壁に粘液が膜を張っている。人間の身体内部はここまで長く広いのか、と驚かされる。カメラは奥へ奥へと進み続ける。この間踊り手は全裸のままテーブルに横たわる。やがて広い空間に到達する。さらにいくらかさまよった後に映像は消えた。すると、「アブラいくぞ〜」のだみ声。何が始まるのか。ひたすらポンプを押す男。中にはアブラ。天井に張り巡らされたチューブへとつながる。最前列の観客にビニールシートが渡される。ついにアブラが放たれた。全身に浴びるように踊り狂う身体。かき鳴らされるノイズギター。咆哮。その様相は歓喜に充ちていた。
  パフォーマンスは終わった。おそらく約1時間。力の限り、拍手。これほどに強く、長く手を叩いて賞賛と喜びを表明したのは初めてだったかもしれない。

ヨコハマ・ナルシス・ノスタルジア

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 5 (アフタヌーンKC)

本当に好きなものについてはなかなか語れないもので、それは、「好きなもの」について語ることが、それを「好きな私」について語ること、その価値を称揚することが、「私」の価値を称揚することになってしまうからだ。そして、他者にそれを否定されてしまうのが怖いからだ。
きっとどのような発語も、その発語者の承認を暗黙のうちに要求しているのだから、現にこうして文章を書いている以上そんなことは気にする必要はない。そうかもしれないが、うまくやらないと、ただのナルシシズムの発露にしかならない。しかしそのような懸念も、ナルシシズムを源泉とするのだから(つまり、ナルシストは嫌われる傾向があるので、より確実に他者の承認を得るためには自己愛は隠蔽されなければならない。)と、そのような認識もまた…これでは無限に続いてしまうので、僕らはどこかでそれを正当化するか、もしくは忘却して生きている。自己愛は、結局のところ、他者を害さないような形で保持されていればそれでいいのかというとそうでもなくて、例えば、小説や、映画、歌の良し悪し(一面的ではあるが)は、それらが意図せずして表現してしまう自己愛が、受け手のそれをも満たすかどうかにかかっていると言えるかもしれないし、他者への愛の表明も、要求する承認のもたらす負荷が非常に大きくなりうるので、一種の賭けになる(いわずもがな、か)。このあたりは、功利性だとか倫理、道徳の議論と類比的だ。当たり前のような気もするけれど、変に分離して考えられているように思われる。
なんだかよくわからない前置きをしてしまったが(エクスキューズ)、僕が言いたいのは、「ヨコハマ買い出し紀行」という漫画が好きだ、ということです。
昨日、「20世紀ノスタルジア」(映画。傑作。)を見たのだけど、それに、宇宙人を自称して、「地球はもうすぐ滅亡するんだ(環境問題のせいで)」なんてことを言い続ける片岡徹君(高校2年生)が出てくる。彼は最終的に、広末涼子演じる遠山杏のおかげで、自己・人間相対化のオブセッションを原因とした(たぶん)、「宇宙人」を自分から切り離すことができるのだが、僕は遠山杏に出会うことのなかった片岡徹に、「ヨコハマ買い出し紀行」を読んでほしい。
それで、その「ヨコハマ買い出し紀行」というのは結局どういう漫画なのか。考えたけどやっぱり言えそうにないので、またそのうち。読むんだったら、つまらなくても5巻ぐらいまでは読んでみて。