「気球クラブ、その後」の「その後」

気球クラブ、その後 [DVD]

気球クラブ、その後 [DVD]

 「ノリ」とか「テンション」とか「空気」とか「キャラ」とか、そういった言葉が嫌いだ。「クソが!」と思う。そんな「クソが!」な人たちばかりが出てくる映画。少なくとも前半までは、ただそれだけの。役者の演技、台詞は薄っぺらで中身がなくて、それでも雰囲気を淡くして、カメラの存在感を殺せばストーリーに没入できなくもないものを、カット割りや照明の不自然さが気になって、そのような見方も拒否される。だからといって、何か意図を読み取ろうとしても、そんなものはどこにも見当たらない。薄っぺらな人たちが、薄っぺらに騒ぎ、交わり、薄っぺらな世界を生きる。そんな映像が延々と一時間は続いた。期待を裏切られる準備はできていた。「紀子の食卓」はフロックだった。奇跡のような間違いだったのだ、と。

(以下一部内容の紹介あり)

「気球クラブ、その後」は気球に偏執的に取り付かれた男、5年前に自然解散した気球クラブのリーダー、村上の事故と、それを伝える元メンバー同士の携帯電話を介したやり取りの場面から始まる。気球クラブの活動は約半年。気球を打ち上げて、それを車で追って、飲んで、騒いで、飲んで、騒いで。そのうちの一ヶ月間だけ参加した北次郎を中心化して物語は描かれる。村上の彼女美津子に抱く下心。「気球なんて本当はどうでも良かった」そんなやつは次郎だけじゃなくて、おそらくは半数以上はそう。薄っぺらな登場人物たちのなかで、ただ永作博美演じる美津子だけが質感を持って迫る。回想シーンを交えながら、結局全員に連絡がつき、村上を偲ぶ会として5年ぶりに元「気球クラブ」のメンバーは集まる。そして、飲んで、歌って、騒いだ末にそれぞれの連絡先を抹消して本当に気球クラブは解散する。
気球クラブ(本)解散の一年後。それぞれの生きる日常、ふと見上げた空に気球が見えて。ただそれだけのシーンだ。けれど、彼/彼女らのまなざしが、彼/彼女たちにとって、それは、それの想いおこさせる光景は、本当に大切な何かだったのだと、突然僕に思わせたのだ。僕にとって空虚で、空っぽで薄っぺらで、体も、心も、思考も何にもない、ただ騒々しいだけの「気球クラブ」は、彼/彼女たちにとっては確かにその瞬間「何か」だったのだ。
僕たちは好きな人、興味のある人、尊敬する人、もっと関わりたいと思う人たちにいろんなものを見る。知識、経験、秘密、可能性、とかいろいろ。もちろんどっちが先かはわからないけど、それらは彼ら自身ではなくて、僕らの欲求の投影、幻想にすぎない。つまり、僕らにとって親しい(実際に親密であるとは限らない)彼らは、それが親しければ親しいほど、僕ら自身なのだ。説明になってないけど体感としてそうなのだ。近づけば近づくほど遠ざかる、到達不可能性こそが彼ら、つまり他者の本質だとすれば、純粋な他者は空虚なものとして現れないだろうか。理解も共感も絶した、生きる世界を異とする他なるものとして。
僕にとって「気球クラブ」の面々はまさにそのような意味での他者だった。ところが気球を何気なく見上げた空に見つけた、そのまなざしによって、僕の世界と彼らの世界はわずかに、けれど確かにつながったのだ。
そして、ラストシーン。意味としては大澤真幸が幾度も繰り返す、サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」におけるゴドーとは?それを待つこととは?という問いとその答えなのだが、というか僕にはそうとしか映らなかったのだが、誰もわからないと思うので(と言うか僕には要約・説明できないので)、簡単に、けれど幾分不正確に言えば、結局やってこなかった誰かは、届かなかったメッセージは、知られることのなかった気持ちは、想起されることのない記憶は、つまりなんなのか。それは空虚だ。無といっても良いかもしれない。しかしそれは、純粋な意味での他者と同じあり方だ。つまり、 そうである(ない)にもかかわらず、「何か」なのだ。
そのような「何か」について思う。けれど、それは誰か他の人に向かって話すことのできるようなことではない。ところが、極まれに自分と同じような人に出会う。それももちろんひとつの幻想でしかないのだけど。
気球クラブのメンバーが飲み会で歌うのは、荒井由美の「翳りゆく部屋」。これがエンドロールでもう一度流れる。劇中では「クソが!」な感じだった歌が、終わった後には口ずさまずに入られなくなる。この変化がこの映画のよさを象徴していると思う。