決定性決定不可能性をめぐるジレンマ

旅路の果て (白水Uブックス (62))

旅路の果て (白水Uブックス (62))

柴田元幸の弟子T先生の授業にて。ブコウスキー『勝手に生きろ!』とか訳されてます。教科書はフランク・レントリッキア編『現代批評理論』(正・続)平凡社


1.はじめに
授業では決定性/決定不能性の対立における後者が主に取り扱われた。しかし本稿では、問題をもう一歩先に進めたい。
デリダやド・マン、言語一般に関してはソシュール以降、すべては単なる差異の体系であり、そこから生じているように見える価値や意味は恣意的なものにすぎず、真の、絶対・究極的なそれは存在しないとされた。
しかし、われわれはそれにもかかわらず、特定・有限の読みに縛られ、どの作品が優れ、また劣っているのか判断している。つまり、われわれにとって自然な行為遂行・価値判断が、厳密に考えれば決定不能であるにもかかわらず、事実なされてしまっていることのジレンマに陥りかねない。このジレンマ、あるいはそれが通常起こらないことが、「決定不能性」という指摘がもたらす問題の本質ではないだろうか。 

2.オタクの選択『動物化するポストモダン
この問題のあらわれを、東浩紀が紹介する「オタク」の消費行動に見ることができる。(『動物化するポストモダン』)東によれば、『エヴァンゲリオン』以降のオタク系文化の中心は、マルチストーリー・エンディング形式のノベルゲーム化した「ギャルゲー(美少女ゲーム)」であった。その特徴はそこで消費される物語が、起源を確定できない二次創作の連鎖による産物であること。そして、受け手の欲望を触発するキャラクターの類型的特徴、すなわち「萌え要素」へと分解できることである。このような分析を通じて東は、オタクたちは無限に増殖する「萌え要素」を「動物的」に消費しているだけで、間主体性を生きていない、つまり主体的な選択を回避していると述べる。
しかし大澤真幸は、東がその意図に反して示してしまっていること、すなわち、より高次の水準でオタクたちが選択を行っていることに注目する。ここで行われている選択とは、特定の物語を選択しないという選択、言い換えればすべての物語を包括しうる大きな物語の選択である。大澤は次のように述べる。

カント哲学の用語を使って、オタク的な対象―データベース―とは、いってみれば「超越論的対象」が直接に現前してしまったような状態である、と総括することもできるかもしれない。カントは、対象に関して統一的な概念を得るためには、「何か一般としてのみ思考されうる」対象が必要である、と論じている。(中略)それは、感性的直感に対して現象することはない。現象したとすれば、それは、常に「何ものか」として特定されるほかないからだ。(中略)超越論的対象は、どのような述語づけに対しても開かれた「何か一般」であるがゆえに、普遍的対象である。オタクは、この本来、直接に現れるはずのない超越論的対象を、まさにデータベースの形式で所有している(との幻想を抱いている)のだ。(大澤 p.78-79)


3.バース『旅路の果て』
選択の主体は徹底的に抽象化され、それゆえに空虚化する。自らを選択の主体として定位することを回避した上でなければ、実際の選択は成され得ない。これは現代日本の「オタク」という特異な現象に還元しきれない。その前段階を、われわれはJ・バース「旅路の果て」に見ることができる。一読してその奇妙な印象に、誰もが記憶してしまうであろう冒頭「ある意味で僕、ジェイコブ・ホーナーだ。」という一文にそれはすべて集約されている。主人公ジェイコブは、緊張病と思しき症状、すなわち突発的にあらゆる行為・選択ができなくなる病に悩まされている。その克服のために彼が取った態度が、自らが自らであることを留保すること、すなわちその固有名を決定不能性に放置すること。そしてそれは、実際に行為する主体の空虚化をもたらす。しかし先にも述べたように、主体は抽象的な次元へ隠蔽されただけであり、消滅したわけではない。これを「前段階」と位置づけたのは、ジェイコブはオタクたちと違って、決定主体の隠蔽に自覚的であることを免れ得なかったからだ。
このような問題を跳躍・忘却することによって解決するのはたやすい。しかしそれはまた別の問題を生み出すだろう。一度それを問題として認識してしまった以上それをなかったことにはしたくない。結局はそのジレンマを生きることより先には行けないかもしれないが、それを自らの課題として残しつつ、本稿を終える。

参考文献
東浩紀動物化するポストモダン』 講談社現代新書 2001年
大澤真幸『帝国的ナショナリズム青土社 2004年
ジョン・バース『旅路の果て』 白水社 1984