『ポストモダンの条件』に抗って―「パラロジー」の向こう側―

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

J=F・リオタールは彼を一躍有名にした著書、『ポストモダンの条件』において、「ポストモダン」という時代は「大きな物語」の失効がそれを定義付ける事態だと論じた。「大きな物語」とは何か。リオタールによれば、それには二つある。ひとつは政治的・実践的な、「自由な主体」・「人間の解放」の物語。もうひとつは、哲学的・思弁的な、「精神の弁証法」・メタ主体としての「知の体系」の物語である。これらは、それ自体の正当性を問うことが無意味な、自明かつ普遍的な理想であり、あらゆる「知」に対して正当性を供給する源泉、また、その判断の準拠点として機能していた。
そのような「物語」への信頼が失してしまった時代が現代、「ポストモダン」だとリオタールは言う。しかし、それはいかにして起こったのだろうか。ひとつの原因は、「物語」に奉仕するものだった「科学」の発達である。科学はその正当化の際に、「どのように証拠を正しいものと証明するのか」という問いを要請した。この証明は技術によってなされるものだったが、科学の発展に伴う、技術の複雑化・強大化によって、更なる発達のために大きな「資本=富」を必要とするようになっていった。そして、資本は技術を生み、技術が資本を生む、という循環が形成され、その正当化は自己言及的になされうるものとなっていった。そして、技術=資本の統合は大きな「力」を生み出し、その力こそが正当化の根拠として機能し始めた。しかし、それでもなお二つの理想=物語はタテマエとしてではあっても疑いようのないものであり、「力」による正当化は真に正当性を持つものではなかった。
ところが、二つの世界大戦を通じて「大きな物語」の欺瞞は完全に暴かれてしまった。そして、科学の領域においてもゲーデルの「不完全性定理」に代表されるように、科学のゲーム性、すなわちルールの絶対性などありえないことが証明されてしまった。これらのことから、「正当性」など存在しないという理解は一般的なものとなり、正当性のなさを正当性の根拠に反転する、「力」の支配が強まり、政治経済の分野ではアメリカが覇権国システムを形成し、社会システム論がそれを補完する思想としてみなされた。
以上のような状況を憂慮したリオタールは、その打開のために「パラロジー」なる概念を提唱する。パラロジーとはあらゆるシステムをゲームとしてルール変更可能なものとしてみなし、異なるゲームの差異性を保持しながら新たなゲームを絶えず生産して、ゲームのシステムへの統一を拒否しようとする思想である。そこにおいては二クラス・ルーマンを筆頭とする社会システム論者に対抗するユルゲン・ハーバーマスも、特定の思想に対抗する二項対立関係のうちにあり、それは対立項をも保存させてしまうものだとして批判される。そのような「パラロジー」が唯一正当性の根拠として認めるのは差異の「創発性」である。
「パラロジー」は1970年代の終わりに提唱された概念だが、現在、その思想的に対応するものとして「多文化主義」を見出すことができる。しかし、多文化主義はいかなる現実的状況を生み出しただろうか。それは最終的には「ナショナリズム」に帰結してしまっているのではないか。
それでは、結局のところ「正当化」はもはや不可能なのだろうか。それは、そうだ、とも言えるし、そうではない、とも言える。どういうことか。
私は、そのどっちつかずの答えの根拠をN・ルーマンに求める。リオタールはルーマンを権力を批判しない保守主義者として完全に否定しきっていた。しかし、ルーマンは次のようなことを述べている。

学が目指すのは、差異を差異へと変換することであり、差異が誤認されたものとしてのみ扱われるべきである 
Luhmann,Niklas(1987)=(1993)馬場靖雄訳「社会学的概念としてのオートポイエーシス

これはリオタールの「パラロジー」とほとんど変わるところがない。それでは、なぜルーマンはかのような誤解をされてしまったのか。その誤解のされ方は同じく社会学者のM・ウェーバーによる「価値自由」と類比的なものであり、その誤解を受けた部分にこそウェーバーと同様にルーマンの可能性があると私は考える。では簡単にではあるが説明を試みよう。
「価値自由 Wertfreiheit」はT・パーソンズによって「valuefree」と訳され、日本においても多くの社会学者また事典を含む著書によって紹介されるように、価値から自由である、またはそれを目指す学問的態度のことだと解されている。しかし、そうではない。私たちは常にある立場、ある価値観に立たざるを得ない。しかし、その選択においては「社会科学」は自由でありうるのではないか、ということ、それこそが「価値自由」に他ならない。(この解釈に関しては那須壽、大澤真幸山之内靖らの議論を参照のこと)そしてさらにこの立場を徹底したのがルーマンなのである。ルーマンは次のように言う。

最後の根拠は、常に最後から二番目の根拠でしかないのである
Luhmann(1993)Das Recht der Gesellscaft 訳は馬場(2001)P.18

この言葉は、私たちが自らの立場から自由でない、すなわちその立場の選択の根拠を持ち得ないのだ、ということを意味している。そして、ルーマン自身もまた例外ではない。彼の議論は決して最終的な「答え」などではなく、常に議論の端緒にしかなりえず、しかしそのことによって後続を要請する。つまり、彼が求めるものは彼の対立者、ハーバーマスと同様に、「コミュニケーション」なのだ。例えば悪名高き「複雑性の縮減」という概念がある。リオタール・ハーバーマスらは、これをシステムの存続、正当化のためのシステム自身が持つ機能として理解していた。だが、「複雑性の縮減」は何かのために必要とされるのではない。その「何か」について語るために「複雑性の縮減」はなされねばならないのだ。
しかし、それではなぜルーマンハーバーマスは対立したのか。その原因は、コミュニケーションや差異性の捉え方の問題にある。つまり、「パラロジー」のように直接的に差異性の価値を主張すれば、統一性を主張する思想はひとつの「差異」として認められず、にもかかわらず現実的にはある特定の特殊性に依拠せざるを得なくなることに非自覚的になってしまうのだ。それに対して、ルーマンの「自己言及的に閉じられたシステム」の考え方は、決して統一性には行き着かない。なぜならあらゆるシステムはその普遍性を標榜し、その普遍性を比較しうる視点、真に普遍的な視点などルーマンを含む誰にも持ち得ないからだ。そしてそのルーマンの比較不能な差異性としてのシステム論は、現状維持の保守主義としての可能性を否定するものでもないが、同時にスピノザ的実体の統一性が「数的でない多様性」を伴っており、そこからネグリ=ハートの「マルチチュード」の概念が発想されたように、新たな多様性・差異性を目指すための思想としての可能性も十分に持っているのである。


参考文献

馬場靖雄 『ルーマンの社会理論』 頸草書房 2001年
合田正人 『レヴィナスを読む』 NHKブックス 1999年
リオタール,J=F 小林康夫訳 『ポストモダンの条件』 水声社 1989年
大澤真幸 『ナショナリズムの由来』 講談社 2007年