メディアと他者性の条件

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

存在論的メディア論―ハイデガーとヴィリリオ

1.はじめに 「メディアと速度」

私たちは交通機関の発達、すなわち速度を手に入れることによって、移動の自由を拡大してきた。
速度の獲得は場所と場所の距離を縮減する。そのことによって相対的に空間は狭くなる。そして速度を持って移動する身体を中心化してこのことを言い換えれば、速度の増加によってあらゆる場所は身体に近づくと言える。
乗り物の速度がその極に至ったとき、搭乗する身体は不動の状態と等しくなる。あらゆる場所は身体の近傍、「ここ」にあるのだから。もちろん実際の乗り物において極点へと漸近する作用は観察できても、「ここ」は常に単数なのだから、距離が無化することはありえない。しかし、私たちはその極、すなわち高速の移動と静止状態の一致をすでに体験しているのだ。それこそがインターネットメディアの利用である。
乗り物と情報メディアを「速度」によって一つのものとして眺める視座を与えてくれるのはポール・ヴィリリオである。ヴィリリオによれば、「速度」は移動によって使い尽くされるものではなく一種の「光」のように現象する。この語が表しているのは、乗り物が静止する風景の中を移動しているという見方ではなく、風景のほうが次々と後方へ過ぎ去っていくという事態であり、ここでは乗り物が風景に「近づく」のではなく、風景を「近づける」のである。このとき乗り物は「運搬装置」ではなく、「速度装置」・「走行光学装置」として情報メディアと同じ「メディア」となる。
このことによって、逆に情報メディアの乗り物的側面を指摘することができる。情報は、ディスプレイやスピーカーなどを通じて、遠方から「ここ」へと高速でやってくる。テレビやパソコン、携帯電話を前にしてじっとしている私たちは、身体は静止状態にありながら、情報を引き寄せる「速度」の只中にいるのだ。そして、メディアによる速度は、電磁波の速度、すなわち光速に到達するために、速度を増し続ける乗り物の「相対速度」に対し、「身体の」ではなく、「速度」自体が限りなくゼロに近づく「絶対速度」の水準にあるのだ、とヴィリリオは言う。さらに、この水準において私たちは、「不活性」なる状態に陥るのだ、とも。

2.問題提起 「メディアと存在」

「不活性」とは何か。和田伸一郎はこの概念を説明するためにハイデガー存在論をそれに接続する。和田によれば、「不活性」とは、「現存在」としてはあらゆる遠方へも潜在的に接続されながら、そのために自らが向かうべき場所をすでに蕩尽してしまった状態であり、無数の可能性のうちで唯一実際に現象・体験されている今・ここを引き受けることもできない、「深い退屈」のことである。では、ここで言う「退屈」とは何か。それは「存在すること」を重荷に感じること、ジャック・マリオンの言い方では「存在するところのもの(存在者)を嫌悪するだけでなく、存在をも嫌悪する」という事態である。
ここで簡単にではあるが、「存在」あるいは「存在者」なる術語を私がどのような理解で用いるかを示しておかねばならないだろう。まず「存在」とは、フッサールが純粋自我を還元の残余、疑い得ない最後のものとしたのに対し、私たちにとって先験的な、「存在すること」の「地」となるものである。そしてそこから生成するものが「存在者」であり、自らをそう自覚するものが「現存在」である。
このような理解から、私は「存在」を嫌悪するとはいかなる事態なのか、メディアはそれにどうかかわっているのかを検討する。
和田は、私が今挙げた問題関心を先に説明してきたようなヴィリリオハイデガーの相互補完によって考察しているのだが、そこには身体の複数性についての配慮が欠けており、「不活性」=「深い退屈」、すなわち「可能性が汲みつくされている」とはいかなることなのかについても、それはメディア利用者としての私たちが、「存在」に向き合う新しいあり方なのだという観点から「表象」概念の否定へと議論が方向転換されており、十分に議論がなされているとはいいがたい。
そこで私は大澤真幸の大著『自由の条件』の一部を参照し、問題の解決に近づこうと考える。

3.メディアと他者性・またその可能性
まず、「不活性」は積極的な選択の不可能性と読み替えることが可能なのではないだろうか。『自由の条件』においてこの疑問と対応するのが、第一部・第二章、「フレデリックとアルマン」の項である。ここで大澤は、芹沢俊介が引いている、精神分析医フランソワーズ・ドルトの臨床例を元に議論を展開する。それを簡略に述べるならば、以下のようになる。

ある男の子が、誕生したときに生みの親に捨てられ、施設に収容された。そして生後十一ヶ月のときに養子縁組が成立し、男の子は引き取られた。このとき養父母は、彼を「フレデリック」と名づけた。だが成長したフレデリックは、知力障害や便失禁などの精神的症状を呈し、七歳になってもこれらの症状は消えなかった。そこで彼はドルトの治療を受けることになる。彼女の治療は直ちに成果を挙げた。しかし、どうしても消えない症状がひとつだけ残った。それは「文字」に対する抵抗である。彼は読もうとも書こうともしなかったのだ。ところが彼は「A」の一文字にだけは反応を示した。彼が養子になる前の名前は、「アルマンArmand」だったのだ。そこでドルトは直接的に彼に問いただすが効果がない。しかしこの後、「アルマン」という名をフレデリックを直接見つめることなく声の調子も変えて呼びかけたところ彼は劇的に反応した。(大澤P.55-56,一部改変・省略して引用)

この事例を大澤はこう分析する。「アルマン」の命名は男の子にとって先験的な選択であったが、「フレデリック」の命名はそれを否定する経験的な選択であった、と。そして、先験的な選択の否定が、彼を選択の主体となることから遠ざけていたのだ、と。このことは先の「存在」とその拒否と類比的ではないだろうか。インターネット空間において名前の変更や命名自体の拒否が頻繁に見られるのもおそらくは無関係ではあるまい。命名されることの拒否、それは先見的な他者の拒否と同じことだろう。そのような他者の不在は、究極的には選択の「可/否」を区別する審級の消滅を意味している。私たちは選択を行うためにまず、その名前を引き受けねばならない。しかし、アルマンの場合と私たちメディア利用者の「退屈」=「不活性」は決定的に異なってもいる。それはアルマンが拒否したのが経験的な名前であったのに対し、メディア利用者が拒否するのは真の、先験的な名前だからだ。
つまり、私たちが「退屈」=「不活性」から逃れるためには、「私」を名指す先験的な他者を確保し続けねばならないということだ。そのようなことが可能だろうか。可能だ、と大澤は言う。きわめて簡略化して言えば、他者の他者性、すなわち、その不確定性を維持することによって。それは「私」の偶有性、単に「他でもありえた」ではなく人称的な偶有性、「あなたでもありえた」によって開示されるものだ。それはメディアによって骨抜きにされてしまう「可能性」とどう異なるのか。「可能性」はあくまでも私の「存在」の内部におけるものであり、「偶有性」は存在自体の差異を問題にしているのだ。しかしそのような差異を問題化する視点は「存在」の内にはありえない。もしそれを問題化しようとすれば、むしろ他者の他者性を損なうものとなってしまうだろう。そう、他者性の到来は常に痕跡として経験されるのみなのだ。かつてあったもの、として。だが、問題はメディアがそのような痕跡を表現しうるのか、ということだ。きわめてフラットで、電子的なそれによって。
 例えば私たちはその問いに対する悲観的な答えをデータベースと図書館の差異に見ることができる。データベースは単に書籍目録ではない。すべてのテクストを検索のネットワークに組み入れることを至上命題としている。それに対し、図書館はそのデータベース化が始まっているとはいえ、基本的に名前によって内容へといたるのだ。つまり、前者には名前の特権性はないが、後者には未だその特権性は残っている。
インターネットのデータベースと図書館が異なるのはこの一点であろう。それゆえに図書館は私たちを欲望させるが、データベースは私たちに利用されるだけなのである。インターネットをはじめとする情報メディアは私たちの生活に不可欠なものとなっている。しかし、それらは私たちを生かすだろうか。もしメディアにそのポテンシャルがあるのなら、私たちはそれをこそ発展させなければならないのではないだろうか。


参考文献

大澤真幸 『自由の条件』 講談社 2008年
和田伸一郎 『存在論的メディア論』 新曜社 2004年
ヴィリリオ,P 土屋進訳 『瞬間の君臨』 新評論 2003年