『In Other Worlds』―「フェミニズム」の可能性―

文化としての他者

文化としての他者

スメルサーの集合行動論で博論を書いた、T先生の演習での発表原稿。

フェミニズムをはじめとするジェンダーについての言説に接するとき、私は何か居心地の悪さを感じてしまいます。男性であること、異性愛者であること、それだけで時に糾弾されているような気がしてしまうし、それならば、と、性差別に反対する声に耳を澄まし、自らも声を上げ運動に参加することは、どうも偽善めいて感じてしまいます。
しかし、この感覚は私に特有のものなのでしょうか。もしかしたら、ジェンダー論じたいに近寄り難さをもたらす何かがあるのではないか、そうだとしたら、その解明は私にとってもジェンダー論にとっても、新たな可能性を開くものとなるのではないか。
この仮説を導きの糸として、ジェンダーとくにフェミニズムについて考えていこうと思います。

ジェンダー論は“当事者”の思想か?
フェミニズムの当事者を女性、ゲイ・レズビアンスタディーズの当事者をゲイ、レズビアン自身だとすれば、それらについて非当事者はどのような意識で語っているのでしょうか。目に付いたところからいくつか引用します。

…本書はいわゆるフェミニズムの本ではない…フェミニズムはあくまでも〈抵抗〉の主体である「女」たち自身の運動であり、「男」がフェミニズムを書くことは定義上不可能なのだと僕は考えている
               加藤秀一 『性現象論―差異とセクシュアリティ社会学―』

…僕は、それまでの女性問題をめぐるさまざまな運動や理論と僕自身の位置について、ちょっと違和感をもち始めていた。いわば「メイル・フェミニスト」としての自分の位置が、ある種の「代行主義」に陥っているのではないか、という気がし始めていたのだ。性差別への批判は、女性の視点から問題にされるばかりではなく、自分自身のかかえこんだ「性」としての「男性性」を問うという視点から考察することができないか…
伊藤公雄 『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学―』

…「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」と声をあげる、クイアによるクイアのための「同性愛と法」科目が、法科大学院のカリキュラムに必要なのだ。私は、そのための舞台を作る役割を担うにすぎない。
土屋恵一郎 『フーコーとクイア理論』〈解説〉私が法科大学院で「同性愛と法」を講義する理由

(「クイア」についての説明)
変態、オカマなどを意味し、非異性愛者を差別的に叙述したり、またそうした人々に対して「揶揄」あるいは「非難」の意味を込めて呼びかけるための、歴史的には英語圏に起源を持つ言葉。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアルトランスジェンダーを総称してLGBTという略語が使われていたのが、八十年代後半に、エイズ問題が深刻化して、社会の偏見への抵抗のために、LGBTと四つに分けられていた人々が、団結して自らをクイアと呼び始めた。


引用した文献の著者たちは、どうもジェンダー論は当事者によってなされるのが望ましいと考えているようです。二番目に引用した伊藤公雄は、自らが当事者たるために、男性学、あるいはメンズ・リブと呼ばれるう運動に参加したようです。
また、日本でもっとも有名なフェミニズムの理論家の一人である、上野千鶴子は、中西正司との共著で『当事者主権』という本をだしています。

そこで著者は、これまで多くの社会的弱者が、「専門家」を標榜する非当事者によって、自己決定権を奪われてきたと述べます。「客観性」の名の元に、「あなたのことはあなた以上に私が知っています。あなたにとって、何が一番いいかを、私が代わって判断してあげましょう」という態度、これをパターナリズム(温情的庇護主義)といいますが、これが当事者たちの権利を奪ってきたというわけです。パターナリズムはパーター(父親)という語源から来ており、、家父長的温情主義とも訳されます。夫が妻に「黙って俺についてこい」とか母親が息子に「あなたは何も考えなくてもいいのよ、お母さんが決めてあげるから」というのもパターナリズムの一種です。
そのような状況に対抗して、当事者が当事者について一番よく知っている、私のことは私が決める、といった「当事者主権」の立場を主張する運動が発展しており、その例としてフェミニズム、患者学、障害学、不登校学などが挙げられています。
当事者が自身について考え、自身について語るということはそれ自体推奨されるべきことだとは思いますが、それが「当事者主権」、「当事者学」というように名づけられ、既定されてしまうと、非当事者の発言はどうなるのか、パターナリズムとして拒否されてしまうのか、と不安になります。
ジェンダー論の非当事者による語りづらさは、その反パターナリズムという特徴にあるようです。しかし、なぜジェンダー論が反パターナリズムとしての当事者学でなければならなかったかについてはまだ考察の余地があります。


ジェンダー論が「当事者学」たる所以
ジェンダー論が「当事者学」たる所以は、ジェンダーという言葉がそもそもどういう意味で何のために導入されたかを考えてみれば明らかです。
ジェンダーとは、「社会的・文化的性別」と訳され、これは「生物学的・解剖学的性別」セックスへの対抗概念として使用されます。性は、作られたものであり、それゆえ変えることができるのだ、という主張をそのうちに含んでいます。
ジェンダー以前、女性の多くは、家父長制の下に従属化・客体化を強いられてきました。言い換えれば、「主体としての女性」のあり方が強要されていた、ということです。そこでは、女性は「母」や「妻」として「主体的に」「従属的」であることが求められました。
それゆえ、女性たちは、何が「主体的」であるかを「主体的」に決定する、という二重の主体性を持たねばなりません。フェミニズムが、運動であると同時にそれについての学でなければならないのはそのためです。そしてこの主体性の根拠がジェンダーという概念であるわけです。

しかし、ジェンダー論は常にひとつの問題に悩まされてきました。それは、性は、どこまで社会的に決定され、また変えることが可能なのか、という問題です。ジェンダーとセックスを分離したところで、ジェンダーが根本のところでセックスに規定されているのだとしたら、性の領域で私たちが主体的であることは不可能になってしまうでしょう。ジェンダーについていくら語ったところで、「それでも私たちは身体を持っているし、女性は子供を産むことができるじゃないか」という反論が生じてしまい、そこから母性という本質が導き出され、派生的に家父長制は肯定されかねないからです。この反論のような考えを本質主義といいます。それゆえ、セックスもまた、ジェンダーとは異なった形で社会的に構築されるものだという考えに、ジェンダー論は行き着きます。そして、性同一性障害者が自らのジェンダーアイデンティティを変えるよりも、金銭や苦痛を伴う身体の改変を選ぶことからもわかるように、セックスよりむしろ、ジェンダーの拘束力のほうが大きいのだ、と思考は逆転します。しかし、そうすると、ジェンダーにおいて男が、異性愛者が標準であり、女性が、クイアが、それとの差異によってのみ規定されるという構造は保持されてしまいます。
この男性優位の構造をひとまず受け入れ、その中でジェンダーは論じられるために、男性が自身以外のジェンダーについて語る言葉は、常にパターナリズムに陥る危険性から逃れられないものと捉えられます。また、逆に男性以外のジェンダーは、沈黙していれば客体化、従属化されてしまう危険性を指摘されます。それゆえ、ジェンダー論においては当事者の語りが要請され、その語りは、その都度、主体性の表明となります。このことから、ジェンダー論は「主体化」の理論であると言えるでしょう。


主体化の理論としてのジェンダー論の問題点
しかし、主体化の理論としてのジェンダー論には、大きく二つの問題があると私は考えます。一つ目は当事者の権威化です。これまで述べてきたように、ジェンダー論において当事者によらない語りは、語り手と語られる対象が主体−客体関係に分離し、その目的と相反してしまいます。その結果、他者の語りが抑制され、その抑制されているという感覚から近寄りがたさが生じ、他者による理解可能性が縮減されてしまいます。
二つ目は、客体としての女性に対する無力です。ジェンダー論は主体化を至上命題としますが、それゆえ客体制は否定的なものとして放置することになります。しかし、誰もが「主体化」したいわけでなく、またできるわけでもありません。二つ例を挙げて説明します。
まず、主体化を望まない女性の例です。
1986年、アメリカで「ベビーM」事件と呼ばれる事件が起こりました。これは、代理母契約に基づいて子供を産んだ女性が、生まれた子供に愛着を持ち、赤ん坊をさらって逃亡したところ、警察の介入によって子供を取り返され、さらに家庭裁判所も彼女の親権を否定した、という事件ですが、貧しい移民で教育も受けていない代理母に対して、フェミニズムは有効な支援をできなかったようです。これは、代理母が、生物学的な本質主義を肯定するような、「母性」を象徴する存在であったことが原因でしょう。自らの生物学適性を相対化できない、つまり、自己の性に対し主体的でない女性は、社会的弱者であっても、ジェンダー理論によっては救済されないことになります。
二つ目は、ヒンドゥ教圏で、寡婦となった女性が亡き夫の火葬の薪の上に身を投げる、サティーと呼ばれる事態です。本来、ヒンドゥ教の教義で「自殺」は許されていません。しかし、このサティー儀礼として例外化されています。このとき、寡婦自身に主体性は認められておらず、その主体性は夫、もしくは聖地としての薪の上に転移されています。つまり、サティーにおいて選択の主体は存在していないのです。しかし、寡婦が薪の上に飛び込まなかった場合、儀礼であることが否定され、主体性が前景化して寡婦は自殺未遂の罪で懲罰を加えられます。この事態に対し、土着のエリートは、儀礼のうちに寡婦の主体性を見て取り、法の改変によって介入したイギリス人は、寡婦を救われるべき客体とみなしました。ここに寡婦の主体化の余地は皆無です。

今挙げた二つの事例について、もはやフェミニズムの、あるいはそれだけの問題ではないと思われるかもしれません。しかし、ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァックはこれらを「フェミニズムの問題として解決する視座を与えてくれます。


フェミニズム」の可能性

スピヴァックはまずジェンダー平等主義、つまり反性差別主義と、フェミニズムを区別します。
前者は、「人間」という類を、男性と女性に二分割した上で生じる、種のカテゴリーを対象とし、その分割に伴う権力関係を問題にするものです。個々人はそれぞれのジェンダーに包摂され、男性に対して女性を劣位に置く社会制度に対する異議申し立てが「女性」のカテゴリーのもとに行われ、またそれぞれのカテゴリーについてのイデオロギーや社会意識が問題にされます。

それに対し後者は、言語によって生じる象徴的な秩序を対象とします。そこにおいて「女性」は記号としてしか存在しません。しかし、それにもかかわらず、その象徴的な秩序は現実の社会構造を根本的なところで規定してしまいます。レヴィ=ストロースの親族構造の分析や、ラカンによって言語の問題とされた精神分析が対象としているものが、記号としての「女性」です。
たとえば、レヴィ=ストロースによれば、近親相姦の禁止は、記号としての女性を貨幣のように流通させるための象徴的な制度です。

スピヴァックは、前者だけでは、記号としての女性は否定的なもののまま放置されてしまうと述べ、それゆえ象徴的な領域についての考察が不可欠なものであるとします。そして彼女は、フェミニズムをまさにそのような学として定義し、そこからさまざまな言葉をつむぎだします。いくつか引用しましょう。

…この二重の見方(性差別主義に反対し、フェミニズムに賛成する・引用者注)は、女性の再生産=生殖の自由を考察する際にも必要とされるだろう。なぜなら、女性の解放を、再生産=生殖の解放と同一視することは、反性差別主義を目的そのものとしてしまうことであり、女性の主体としての地位の確立を疑問の余地のない善としてみることであり、…そしてそれは、女性の客体としての地位が、女性の再生産=生殖機能とはっきり同一視されるような、親族構造を構成する、女性の一般交換としての文化の見方を合法化することでもある。

ここで、スピヴァックジェンダー論だけでは、問題は解決されないということを述べています。その理由は、女性自身の主体化を称揚するあまり、自らの客体性、つまり自身の自身に対する他者性が無視されているということです。すなわち、女性をひとつのものとして名指すことができる、という考え方自体が批判されているのです。また別の箇所では

第三世界の文学の受容について論じながら)
…「副次的」素材に対して「エリート的」方法論をとることへの抵抗は、認識論的/存在論的な混乱を招きやすい。その混乱は、「副次的存在がエリートではない(存在論)のと同じように、歴史家はエリート的方法によって知ってはならない(認識論)」という承認されぬ類比関係の中で生じる。
 しかしこれは、さらに大きな混乱の一部に過ぎない。男性がフェミニズムを理論化できるか、白人が人種差別主義を理論化することができるか、ブルジョワが革命を理論化することができるかといった事柄にまつわる混乱である。その状況が政治的に耐えがたいものとなるのは、前者のグループだけが理論化するときなのだ。

と、フェミニズムを含む理論の当事者主義が批判されています。そして一ページほど後には次のように述べています。

…副次的なものだけが副次的なものを知ることができ、女性だけが女性を知ることができるなどという立場は、理論的前提としても成り立たない。なぜなら、それは、自己同一性に関する知識の可能性を断言することになるからである。そのような立場をとるどんな政治的必要性があるにせよ、また、主体としての他者を「特定する」/他者と「同一化する」試みにどんな利点があるにせよ、知とは、同一性によってではなく、還元不可能な差異によって支持され、可能となる。知の対象は、常に知識の量をうわまわっている。つまり知識は、その対象に比して決してじゅうぶんではあり得ないのだ。…実践――副次的なものの同一性を主張する必要――と理論――知識の生産のどのような計画も、起源としての同一性を前提とすることはできない――の間の関係は、執拗にお互いを危機へと追い込む「妨害」の関係なのだ。
ガヤトリ・C・スピヴァック『文化としての他者』


ここで使われている「副次的」という語は、サバルタンという語の訳で、別の箇所では、従属的、服属的などと訳される語です。わかりやすさのために、被差別者、と読み替えてもらってかまいません。

(もともとアントニオ・グラムシというイタリアのマルクス主義者が、獄中で検閲から逃れるために、マルクス主義を一元論、プロレタリアンをサバルタンと書いたところからきているようです。)

ここで彼女が述べているのは、知の対象は知られるもの、つまり、知識より常に量的に多い以上、全体を把握することができない、つまり、対象を「ひとつのもの」として指し示すのは、根本的に不可能だということであり、そうであるがゆえに、自らを「主体」というひとつのものとして前提する実践と、理論は矛盾し、理論において当事者性の優位などはありえない、ということです。むしろ、知とはその外部、知り得ないものの存在によって可能になるということです。そしてここでは述べていませんが、ここから実践としてのジェンダー平等主義における、主体化を支持しつつ、そこから逃れていく客体性・他者性をも、両者の矛盾を意識しつつ、肯定しなければならない、と彼女は考えているのだ、と私は解釈します。そして、この他者つまり、他の、異なるものを肯定する力こそがフェミニズムの可能性なのだ、と私は考えます。


主体化しきれない残余=他者性へのまなざし

最後に、テーマから少し外れますが、スピヴァックフェミニズムの可能性としたものは、学問一般に当てはまるのではないか、と大澤真幸の議論をもとに考えます。

大澤は社会学とは「巫女の視点に立つこと」ではないか、と柳田國男の「遠野物語」を参照しながら論じています。彼が引いているのは次の箇所です。 

土淵村(遠野郷にある十ヶ村のひとつ)栃内の久保の観音は馬頭観音である。その像を近所の子供らが持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇に乗ったりして遊んでいたのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いてみたところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。

ここで大澤は、別当が病に倒れるのはなぜか?という問いを立て、そこに言語の水準と身体の水準のずれを見出します。別当は、言語の水準では「観音像をなれなれしく扱ったり、粗末にしてはならない」という規範の支配下にあるが、同時に身体の水準では「観音様も楽しく遊びたいはずだ」「観音様と親しく交わっても良いはずだ」と感じている、と指摘します。
そして、病は身体の他者性として現れ、この「他者性」を見抜くまなざしこそが巫女の視点であり、巫女にそれが可能なのは、異界と現実界のあわい、つまりどちらにとっても他者たる領域に身をおいているからです。そして、この視点の獲得が、社会学すること、だというわけです。

他者について考えるという営みは、別の世界に身を置いてみることだと思います。長々と引用したスピヴァックの『文化としての他者』という本の原題は、『In Other Worlds』。これを『〈フェミニン〉の哲学』の著者である、後藤浩子は、『別の諸世界に立ってみること』と訳しています。この表題のためのひとつの技法としてフェミニズムは考えられています。そして、そこにこそフェミニズムの可能性はあるのではないか、と仮説を提示して私の発表を終わりにしたいと思います。


参考文献
江原由美子 金井淑子編 『フェミニズムの名著50』 平凡社 2002年 
後藤浩子 『〈フェミニン〉の哲学』 青土社 2006年
伊藤公雄 『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学―』 新曜社 1993年 
岩波講座 現代社会学11 『ジェンダー社会学』 岩波書店 1995年 
加藤秀一 『性現象論―差異とセクシュアリティ社会学―』 勁草書房 1998年 
河口和也 『クイア・スタディーズ』 岩波書店 2003年 
大澤真幸 『ナショナリズムの由来』 講談社 2007年 
大澤真幸編 『社会学のすすめ』 筑摩書房 1996年
佐倉智美 『性同一性障害社会学』 現代書館 2006年
スパーゴ,T 吉村育子訳『フーコーとクイア理論』 岩波書店 2004年 
スピヴァック,G・C 鈴木聡ほか訳 『文化としての他者』 紀伊国屋書店 2000年
上野千鶴子 『差異の政治学』 岩波書店 2002年
上野千鶴子 中西正司 『当事者主権』 岩波新書 2003年