「河岸忘日抄」ためらい続けることの肯定をめぐって

河岸忘日抄

河岸忘日抄

物語の主人公「彼」はセーヌと思しき河岸に繋留された船で生活をしている。故国日本での仕事を清算し、まったくの宙吊りとなった身分で、数年ぶりにフランスへとやってきた彼は、過去に偶然命を救ったワイン商の老人と再会し、船を住居として貸してもらうことになったのだ。燃料を抜かれ、川水の上に浮かびながらも決して移動することのできぬ船。
そこにおいて彼は、自らの、まさしく彼が住まう船のような状態をひとつの格率として肯定しようと試みる。この物語はその試みの軌跡といってもよいほどだ。それはあらゆる定義からの逃避。そしてそれはどこかで定義がなされていることを暗黙のうちに信じることの拒否でもある。例えば彼は、友人たちから「変わっていない」と茶化される。だが、「変わる」とはどういうことか。一個の生の同一性を保ちながら、そのうちで明確に差異をうがつことなど可能なのか?と彼は問う。
この物語は三人称(一元)で語られ、あらゆる文章を同じ平面に置くことによって区別を拒否しながらも、アスタリスクによって区切られた断章によって、時間の前後関係も編集される。あたかも彼が友人たちに対して、「君たちのやっていることはこういうことなんじゃないのか?」とでも問いかけるように。そして、自身はそのことに自覚的であることによって彼らよりもましなのだ、と。
もちろん、「彼」と語るのが「彼」自身なのだと断定することはできまい。しかし、それを仮説として提示するだけの根拠はあるのだ。

蒐集し、整序した人間の意図的な操作がからんでいて、真実の声なのかどうか完全な保障は与えられていない回想の数々。問題は、嘘かまことかという以前に、ひとり語りが必ずしもその人の人生を描き得ないという、考えてみればじつにあたりまえの事実のほうにある。一人称で統一された語りは、虚構の中でのみその真実を維持しうる。なにをどう語ろうと、時間の順序をどう替えようと、それがひとつの流れの中で息づいていると読み手もしくは聞き手が感じるならば、それは正真正銘の「ほんとう」に、記録や事実とは関係のない語りの地平での「ほんとう」になる。
(堀江P.162-163)

これはほとんど自身=小説について語られているように読めないだろうか。
平出隆が指摘するところの「固有名詞による遠近法」なる事態もまた、定義の拒否を表している。彼が直接関係する人物には彼自身を含めて名前がない。彼が出会うのは大家、郵便配達夫、どこからかやってくる少女。特に少女の名前は物語において重要な鍵となる箇所があるにもかかわらず、その開示は周到に避けられている。それとは対照的に小説、映画、音楽にまつわる名はブッツァーティショスタコーヴィッチ、ハンフリー・ボガートチェーホフ、飯吉光夫と枚挙に暇がない。そして大家、郵便配達夫、そして少女との関係はこれら遠くにある固有名によってもたらされるエピソードを介して紡がれていくのだ。
ほかにも「現状明細書」なるものがある。

本現状明細書はT河岸に繋留された家具つき賃貸物件S号に関する賃貸契約に伴い二部作成されたものであり、一部を貸主に、一部を占有者に手渡すものとする。その一。住居関係。サロンおよび食堂。床――チーク材の寄木、合成樹脂塗布済み。壁面――白ペンキ(艶なし)塗装。天井――チーク材、合成樹脂塗布済み。窓――チーク材、引き戸式、透明ガラス枠には合成樹脂塗布済み、八枚。(堀江P.29)

この後同程度の長さが続き、次のような文章が挿入される。「本状の作成は法規にて定められておりますが、私どもと貸主の信頼関係に基づく形式上のものとお考えください」しかしその後、いくつかの断章に分けて、おそらくは「明細書」の全てが引用される。彼がひとつずつチェックしていったことを示すように。これはほとんど「固有名」を拒否する確定記述の束のようだ。
固有名の扱いに関して唯一の例外に、ファックスで連絡を取り合う「枕木さん」がいるのだが、彼の名は線路に置かれる同名のそれや、「スリーパー」と翻訳されて、眠る人、スパイの意味へと重ねあわされる。そして固有名として唯一の人物を指示するという機能は縮小して忘れ去られ、「喩えられるもの」としてのイメージが自立し、浮遊し始めることになる。彼は、定義の暴力性を恐れると同時に、定義の不可能性をも恐怖する。しっかりと把握していたはずの人やものや言葉が唐突に見知らぬ相貌を持って現れること。彼はこの唐突さから逃れるために、確固たる定義を避け、あらかじめ換喩の無秩序な運動を先取りしているのだ。
しかし、その運動はひとつの例外を除いて収束することはない。たとえば大家との「穴」についての会話は船室の中の「樽」へとつながり、「樽」は、その形状から、口座開設担当者の胴回り、クロフツの短編「樽」、向こう岸で鳴らされる太鼓「ジャンベ」、唯一「樽」で輸送されるブルーマウンテンからガラパゴスのゾウガメへと分岐する一方、棺、椅子へと次々にずれていく。
「喩えるもの」としての起点が消失し、ただ「喩えられるものが」自己増殖していく運動と同じように、彼の自らの立場、格率をめぐる思弁もどこへも行き着かない。それはほとんど「ミュンヒハウゼンのトリレンマ*1 の「恣意的打ち切り」を避けることによって「無限背進」と「論理循環」の罠を体現している。
だが、彼が望むのはその罠に陥ることの肯定ではないのか?それがさらに否定的な問題を引き起こすことなどありうるのか?
ありうるのだ、と言っておこう。そしてそれを可能にしてしまうのは時間であり、他者なのだ、と。
クリスマスの近づくある日、船室の窓をたたく音がする。半醒半睡状態の彼が応対のためにデッキへ出ると、笑みを浮かべた男が何も言わずにカードを突き出す。そこには「よいクリスマスを ごみ収集人と道路清掃人から、心をこめて」とあった。「こいつはいかにも幼稚な詐欺だと考えた彼は、身体中の血を意識の中枢に集めて逃げの手を打ち、もみ合いになった場合に備えて武器になりそうなものの位置をとっさに確認さえした」。男は領収書を出すなどして説明し、そのうち彼も「清掃局の人に出す祝儀を今年はどうするかねえとひそひそ話をしていたことを鈍い頭で思い出し」言い値を払うことになる。しかしその後の断章で、「人を頭から疑ってかかる慎重さ」を避けてきたはずの自分に思い当たり、今は亡き妹との思い出さえ引きながら、自己に対する弁明を始める。それはすでになされた行為の肯定を目指すものであり、「無限背進」・「論理循環」ではなく「恣意的打ち切り」についての肯定なのだ。結局のところ「トリレンマ」はどこまでもトリレンマであり、定義の不可能性へととどまろうとする彼の試みはいとも容易く、突然の来訪者によって定義の暴力性へと引き戻されるのだ。
「無限背進」・「論理循環」が思弁的・抽象的であるのに対して、「恣意的打ち切り」のみが現実的な事態だといえる。つまり、現実的なものを徹底的に避けることによってしか彼の立場は肯定されえ得ないということだ。ところが、彼のトリレンマはひとつの出来事によってまたもあっけなく終結する。
先に、換喩の運動はひとつの例外において終結する、と書いた。それは世界においてただひとつ確実に現実的なもの「死」である。定義などできないはずのものが変えようのない限界を与えられてしまうこと。それはもはや「恣意的」などではない。
彼以上に自己肯定の言説にまみれた友人が全き外部へと向かった今、彼も内側にとどまり続けることはできなかった。「内側」を何一つ変えることができなくとも、外部への接続方法を変えることによって世界は変わりうるのだ、ということを「死」によって垣間見た外部によって彼は知ったのだろう。物語の終わりに彼は決して渡るまいと思っていた向こう岸へと向かい、ジャンベを打ち鳴らす男へと近づいていく。そこにおいても彼は、それまでと同じように自らが行っている、あるいは行おうとしていることについての理由付けを性懲りもなく繰り返すのだが、その先が未確定であることには変わりがない。なぜなら、それ以上物語は語られていないからだ。その先を知る語り手はもはや存在しない。彼は時間と他者をその不可欠な要素とするコミュニケーションに身を投じることで、自らの「その先」をそのつど語り続けていくしかないのだ。

参考文献

馬場靖雄 『ルーマンの社会理論』勁草書房2001年
堀江敏幸『河岸忘日抄』新潮社 2005年
大澤真幸 『恋愛の不可能性について』 ちくま学芸文庫 2005年
『新潮』2005年6月号

*1:ミュンヒハウゼンのトリレンマ」(岩波哲学・思想事典より)知識の〈基礎づけ〉の試みについて、それがアポリアに陥らざるをえないとして、そのアポリアの状況を指示するためにH.アルバートが「批判的理性論考」(1976)において、ドイツの民話上の人物ミュンヒハウゼン男爵が解決したと「ほらをふいた」問題に〈基礎づけ〉の問題状況を重ねて導入した言い回し。「ほらふき男爵」のトリレンマと邦訳されることもある。なお、K.ポパーが「探求の論理」(1934)で同様の状況を指摘している。また、すでに古代懐疑主義においても内容的に同等のものが語られている(たとえばアグリッパの「五つの方法」は下の三選択肢に相当する三「方式」を含んでいる)。アルバートによるなら、基礎付けを求めると、 1.あるものを基礎づけるものをさらに基礎づけるもの、さらにそれを基礎づけるものを…というふうに無限に遡ることになるか、 2.循環的に、(他のものによって)基礎づけられたものを基礎づけに用いることになるか、3.もはや自身は基礎づけられていないものに依拠することによって独断的に基礎づけを中断してしまうか、 のいずれかを選択せざるをえなくなる。ちなみにアルバートらの批判的合理主義は、この事態を回避するために、そもそもの基礎づけに対して「批判的吟味」を提唱する。K.-O.アーベルなどの超越論的語用論や構成主義からは、この事態は基礎づけを〈演繹的〉基礎づけに限定する場合にのみ生じることである、との(反)批判がなされている。