久しぶりに考えた気がする。
- 作者: 高橋源一郎
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1996/03
- メディア: 文庫
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‥‥例えば、それは白いシンプルな装丁のグラシンがついたままの吉田健一の「詩について」で、僕は数行読むたびに、視線を頁から窓へ移す。吉田健一の言葉がものすごい勢いで頭の中を刺激していくので読み続けられないのだ。未来はまったくわからず、その日暮らしで、ただぼんやりと作家になれたらいいなと思っていた、本を読むことが何より最高の贅沢だった頃のことである。
少し前に読んだ源一郎の「晴れた日にはえの木ていで本を読もう」という文章の一節。僕はこんな読書にあこがれる。(その日暮らしの部分もふくめて)
‥‥ぼくは小説が「実存的」様式であることを認める。詩が遠い過去から伝わる「叙情詩的」もしくは「叙情詩的」本質を追いかけながら言葉をつむぎだしてきたのに対し、小説はその本質を自分自身によって再定義しながら生き延びていく様式なのだ。小説的言語はこの世界に孤独に投げ出され、フィクションとして解釈される存在である。それは、「実存」と呼ばれる人間の存在とまったく同じだ。詩は人間の存在を超えて、永遠を歌うが、小説は我々を決して超えることはない。なぜなら、小説とは我々そのものだからである。
僕は何故小説を読むのか、小説に魅力を感じるのかについて考える。うまく言えないけど、小説を読み続けていると、異なる時間軸が堆積していくように感じることがある。その感覚は、源一郎の「小説は我々そのものだ」とか、「小説を読むことは『生きる』ことに等しい」という言葉にすごく近い気がするのだ。また、源一郎に限らず、そのような「感覚」に近い言葉と出会ったときに僕は、どこか、あるいは何かに向かって、少しずつではあるけれど確実に歩を進めている、と思える。