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官能小説家

官能小説家

何か大きな勘違いをしているんじゃないかと自分を疑ってしまうほどに面白かった。これほどまでに真摯な言葉の連なりに対し、ただ沈黙したまま、一人感動に浸っていてはならないと思った。僕も言葉を返さなければ、と思った。でも、昨日まで出来なかったことを急に出来るようになるはずもなく、僕は相変わらず、表現したいことから遠く離れたところをうろついているだけだ。
恐れ多いことだけど、小説から切り離しても、その真摯さが伝わるだろう箇所を引用させてもらおうと思う。

‥‥みんな言い訳だ。ぼくたちは現場ではなにもできなかった。ただ見ていた。どこが現場かわからなかった。現場に行き損ねた。現場から逃げた。そういうわけで、現場で起こったことを脚色してお伝えします。みんな言い訳だ。そして、言い訳のほかに僕たちが書くことはなにもないのだ。‥‥そう、きみが覚えなければならないのはそのことなんだ。つまり、この世で一番カッコ悪い仕事なのさ、書くことは!

‥‥君は苦労してようやく一つの言葉を、あるいは一つの文章を書いた。その瞬間、きみは無数の可能性の中からたった一つを選んだのだ。その見方を選んだ。他の見方に目をつむった。つまり、それ以外の可能性を全て棄てた。きみはきみが選んだ言葉以外の全てを殺した。だとするなら、きみは、きみが殺した全ての言葉、きみが投げ捨てたすべての可能性に対して責任を負わねばならないんだ。

また、小説の後半部では田村隆一の『帰途』を思い起こさせる言葉が発せられる。

「あたし、言葉なんか覚えるんじゃなかった」

言葉なんか覚えるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

『帰途』はこのように始まる。そして次のように終わる。

言葉なんか覚えるんじゃなかった
日本語とほんのすこしの外国語を覚えたおかげで
ぼくはあなたの涙の中に立ちどまる
ぼくはきみの血の中にたった一人で帰ってくる

彼らは言葉を覚えることの、言葉を使うことの意味を知りながら、言葉を覚えることを、言葉を使うことを自ら選びなおしたのだ。