単独性の外部へ―ロベルト・ムージル「愛の完成」―

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

部屋の中には夫と妻の二人。窓は濃い緑色の目隠しに覆われ、夕暮れの室外からは完全に切り離された空間として、その部屋はある。二人は愛し合っている。愛し合っている?なぜそんなことがわかるのか。たとえばその理由が、「そのように書かれているから」だとすれば、われわれはさらに、問いを継ぐことができる。そのように書くことを可能にしているものは何か、と。それはいうまでもなく、あらゆる空間を、すなわち個々人の内面をも均質なものとして移動することのできる、超越者の措定である。そこで愛は内面と内面の関係であり、その関係の記述者として超越者が存在するわけだ。しかし、「愛の完成」において、愛は内面の関係ではない。それはまず、空間そのものとして描かれる。

夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、硬いぎごちない角度をなした。
確かに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかしそれとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じ取れるのは、この二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかいのように緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらず、ほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。(ムージル,1987,8)

 妻が注ぐ紅茶の湯気はトパーズのように静止し、壁に映る光は黄金色のレースへと凝固する。時間は糸のように二人の胸を貫き、静止し、硬化する。そして、空間は結晶化し、結晶は鏡となって空間を無限化する。ここには内側も外側も存在しない。言うならば、すべては内側であり、同時に外側でもあるのだ。確かにこのような記述を可能にしているのもまた、超越的な水準であろう。しかし、内と外の無差異化は、超越と内在の差異も無化してしまうのである。このような差異の無化、すなわち「合一」が愛として描かれている。だが、このような関係を成立させる二者それぞれが、それぞれであることが必然的でなければ、またそのように感じられなければ、そこで成立している愛の価値自体が相対化され、愛など必要なものではなくなってしまう。それゆえに妻は、その愛=合一の関係に付随してしまう偶然性の克服を願っている。
 その妻は、夫から離れて旅に出ることになる。娘が生活している寄宿舎に訪れるためで、夫は仕事のために同行することができなかったのだ。そこで彼女に名が与えられる。彼女、クラウディネはいまやひとつの主観、内面を持つ主体として外界と接せねばならぬはずだ。命名はそのような事態を象徴している。しかし彼女は、自己と世界との、自己と他者との関係を安定したものとして成立させることができない。なぜなら、彼女にとって世界とは夫との関係そのものであり、その世界においてのみ、彼女は自身であることができるからだ。それゆえ、彼女の外界との関係は、通常の自己=内と外界という構図をとらず、自己と夫の関係=世界と外界という構図になり、外界において現象する彼女の身振り、発せられる言葉は自身から剥離していく。そうでなければ、「世界」を保持することができないからだ。つまり、外界における彼女を自己として認めてしまうことは、彼女は夫なしで存在する自己を認めることになり、夫との関係は偶然的なものとなってしまうからだ。
 この剥離の連鎖の中で、彼女は一人の男に誘惑される。そして男に身を投げ出すことになる。なぜなら、それこそ彼女にとって夫との「究極の結婚」だからだ。《あたしたちは、お互いを知りあうその前からお互いに不実だった》という思いは、《私たちは、お互いを知りあうその前から、お互いを愛し合っていた》という思いと、彼女にとってはかわりがない。(ムージル,1987,51)実際に姦淫へといたる小説の最後は次のようにつづられる。

そのとき、彼女は自分の肉体があらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくるのを、身ぶるいとともに感じた。しかし同時に、彼女はいつか春の日にかんじたことを思い出した心地がした。こうしてすべての人間たちのためにあって、それでいて、ひたすら一人のためのようにあることもできるのだと。そしてはるか遠くに、子供たちが神のことを思って、神様は大きいんだと言うように、彼女は自分の愛の姿を思い浮かべた。(ムージル,1987,97)

愛の関係は、神との関係と同一視される。しかし、この神はキリスト教のそれではない。なぜなら、ここでは服従が主体性へと反転し得ないからだ。そして、キリスト教の神は一般性を持つが、ここにあるのは絶対的・単独的な関係である。柄谷行人は「日本近代文学の起源」の冒頭に、漱石の「文学論」を論じながら、偶然性への問いを提示している。「私はなぜここにいてあそこにはいないのか」(柄谷,1988,17)この問いを発端として、主観という一般性が近代において成立したに過ぎないことを論証していくのだが、発端の問いが直接的に論じられるのは、その後の『探求』においてである。しかし、『探求』においての「単独性」は「この私」と「この犬」が同列になるようなものである。「愛の完成」の最後に示される単独性は、徹底的に「私」のものであり、その「私」は世界=神と完全に「合一」している。そこにはもはや外部がない。すなわち、合一=愛の完成とはコミュニケーションの完成であると同時に、コミュニケーションの終わりでもあるのだ。その外部のなさに、柄谷の議論(教える−学ぶ)では、対応できない。柄谷を批判する論考の末尾に、永井均は次のように述べている。永井の言葉をひとまずの結論として本稿を終えよう。

それゆえ、おそらく、われわれはむしろ交通の不可能性こそを学ばなければならないのだ。それは、この無限ではない、それとは別の無限の存在、というパラドックスを認めることであり、そのもうひとつの無限を、どんな命がけの跳躍も決して達し得ない、別の「精神」としての他者の存在として、承認することである。それはつまり、単独性(固有名)と世界宗教キリスト教−引用者注)の「外部」を求めることなのである。(永井、1991,133−134)


参考文献
柄谷行人 『日本近代文学の起源』 講談社 1988年
     『探求?』 講談社 1992年
永井均 『〈魂〉に対する態度』 頸草書房 1991年
古井由吉 『ムージル 観念のエロス』 岩波書店 1988年
ムージル 古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』岩波書店,1987年