詩から遠く離れて

詩の読み方がわからない。わからないというのはつまり、とまどうということだ。落ち着かない。そこで詩論などに触れてみるが、わからない。それらは詩をわかっている人たちのものだからだ。
わからないなりに読んでいっても、好きになる詩はあるもので、そのうちの一つが鈴木志郎康のものだった。その彼が書いた「極私的現代詩入門」という本を読んだのだが、面白い。面白いのは冒頭の何章か、詩を媒介とした世界と彼の関係の変遷が書かれている。
自分に内面というものがあって、そこにこそ自分にとっての真なるものがあると信じる。だけど、世界、社会、他人、現実はこの内面を理解しない。受け入れない。実際「私」の内面は、そのような場所において無意味、かつ無価値である。そして、そうであるがゆえに、「内面」と「真なるもの」の結びつきは強化して、それをそのまま受け入れてほしいという願望もまた、高まる。
鈴木志郎康の詩はまず、そのような「内面信仰」の発露として書かれた。例えば、以下のような。

私は人妻が手淫していた
私は老婆が手淫していた
私は女性重労働者が手淫していた
私は人妻が手淫していた
私は牛乳びんが手淫していた
私は時計が手淫していた

「月」部分

ここにあるのは、一般的な水準から言えば無意味な言葉の連なりだ。だけど、作者自身においては一つの意味体系が成立している。
僕はこの詩が好きだ。でもこの詩には問題がある。それはこの詩が強い現実否定の言葉で、「私」の絶対的肯定を要請する、硬直した権力の声だからだ。そしてこの詩は、鈴木自身の言葉で言えば、「作者である表現者を解してのみ理解される言葉なのだ。(略)孤独な魂を育むのにはよいかも知れないが、文学的営為をますます矮小化することになってしまう。」

現実を拒否していた言葉は現実に向かって開かれ、接続し、葛藤を始める。それはこんな詩。

十五歳の少女はプアプアである
純粋桃色の小陰唇
希望が飛んでいる大伽藍の中に入って行くような気持ちでいると
ポンプの熊平商店の前にすごい美人がいるぞ
あらまあ奥さんでしたの

私小説的プアプア」部分

ここでも「無意味さ」は一貫している。でも、以前と比べて、何か、ひらかれている。なぜか。たぶん、言葉の無意味さが「私を肯定せよ」という願望からもっと一般化したからだ。つまり作者から言葉がすこし自由になったからだ。
鈴木本人によればこの時期の詩は「膠着してくる日常(=あらゆるものが一つの価値体系の下に意味づけられてしまうこと)に抵抗し、支配的な価値体系に一時的な混乱を与えること」を目指して書かれている。しかしそれは結局「一時的」に過ぎず支配的な価値体系の内側の出来事だった。
そんなことに気がついて、(きっかけの一つは浅間山荘事件)また、十年以上いっしょに暮らしてきた奥さんとも別れ、彼は詩を書けなくなる。孤独になって、詩も書けず、そこで自分の身体を眺めた。つくづくと。すると身体は他者としてあらわれて、生きているのは私でなく身体なのだ、と思う。思いは飛躍して「世界は細部の寄せ集めからなっている」というところに落ち着いた。そして彼は書き始めた。「自らの生活の細部を語るという詩を」僕が好きなのはそういった詩だ。

私の住宅の便所には
天井から床へ一本の管が抜けている
夜便器に座っていると
シャシャア
と流れる音がする
それで
ああ、今上の方で誰か用便をして水を流したと知ることができる
私も又用便を終えて
水を流すと
同じ管の中を
私の糞と水が流れていくのだ

「便所の管」

僕は、それらの詩がどんな場所から書かれているかを知った。

詩に書けば、部屋の中の花を見ているという行為が、事実から離れて何らかの意味に結びついてしまうことを考えた上で、その意味へと向かう運動を止めることから始めるのだ。それは心境というものへ秩序立てられていくのに十分な要素を持っている。又それは心境というところまで行かなくても、一つの気分というものの表現になってしまうであろうことは十分考えられる。実際、具体的な生活の細部を詩にするというとき、人々はその生活の細部を、その事実性に止まらないようにして、それを超えた一つの意味へ持ち込もうと努力してきたのだ。(略)しかし、抒情詩など書いてみたところで仕方ないのだ。抒情は形式であり、形式の創出が詩であるというなら、私は詩から遠いところへ行きたいと思っているのだ。私は生活の細部にこだわる。しかし、その細部を私の感情や気分や心境などというものを表出する道具立てにしてしまいたくないのだ。私は世界の主人ではない。私も又世界の部分でしかないし、常々道具立てにされているものでしかないのだ。

ずいぶん遠くまで来たなぁ。戻ってきただけなのかもしれないけど。僕もいつか戻れるでしょうか。