特別な時間

わたしたちに許された特別な時間の終わり

わたしたちに許された特別な時間の終わり

「ね、ね、きのう読んだ小説めちゃくちゃおもしろかったんだけど!」
「へ〜なんて小説?」
「わたしたちにゆるされたとくべつなじかんのおわり。岡田トシキっていう、岸田ギキョク賞?演劇の賞なんだけど、とったひとがかいてんの。」
「ふーん。どんな内容?」
「えっとね、なんか主人公みたいな男が、よっぱらった友達といっしょに六本木のクラブみたいなとこに行くのね。で、そのクラブでは『イラク戦争反対!』みたいなイベントやってんの。ステージにマイクが置いてあって、しゃべりたいひとしゃべって、っていうふうになってんだけど。でもそのイベント全然盛り上がってないの。しらけてるっていうか。」
「うん」
「うん、主人公も、しらけてる感じなんだけど、なんか、楽しんでもいるの。観察者として。それで、いろんなとこ見てんだけど、女の子と目があうのね。で、その女の子と意気投合して、あ、クラブの入り口の方にバーカウンターみたいなとこがあるんだけど、そこで。それからふたりで抜け出して、渋谷のラブホに行って、五日間ヤリまくるの。」
「うん」
「……」
「あ、おわり?」
「うん」
「それ、おもしろいんだ?」
「あーおもしろかったんだけどねーすごく。」


ほんとうは、もっと高尚(!)なことを考えていたのだ。直前に読んでいたベルクソンの入門書のこととか。ウィトゲンシュタイン永井均独我論的〈私〉のこととか。ほかにも、たとえば、自己イメージと想像的他者心理の相互作用、言語(発話)によって作られる「私」と私自身の齟齬。私によって想像されているに過ぎないはずの他者の心が、間違いなく私の外側にあるものとして私の内側に立ち上がるリアリティの逆説。絶対的に隔絶しているはずの他者と何かを共有しているという相互的確信=特別な時間。あとまぁいろいろだ。でもこういうのはあくまで、というか結局、自分を納得させる言葉で、それ以上のものじゃない。人前でしゃべっても独り言になってしまう。
「小説に新しいものが持ち込まれた」みたいなことも思ったけど、それはつまり、私だとか意識だとか他者だとかの一つのあらわれがはじめて言葉にされたな、ということです。
きっとみんな「特別な時間」を求めているんだろうとは思うけれど、それは大体、恋人、友人の関係についてだろう。でも、ここで考えたいのは小説(=世界)を媒介とした関係だ。小説と読者、小説家と小説家については、そういったものがしばしば成立しているようにも思える。じゃあ、小説家と読者、読者と読者はどうだろうか。でも、手がかりがない。眠い。頭が悪い。誰か考えてくれ。