根を持つことと翼を持つこと

Super Are

Super Are

不可触な、閉じられた円環構造として感覚される現代社会から逃れる手立てとして、ドゥルーズが挙げた〈狂気〉、ボードリヤールの〈死〉を思い起こさせる。そんな彼らの、ボアダムスの音楽の中で僕は自由になる。この世界を超越していく。そんな気がする。でも、踊っていると、汗が、時には鼻血も出てくる。そうすると、現実に引き戻される。僕は自由なんかじゃないことに気付かされる。ところが彼らの音楽は違う。そこで僕は、身体なんか、いのちなんかいらないから、彼らの音楽を構成する微細な粒子になってしまいたい、そう強く思うのだ。
いるみ

いるみ

福音

福音

ボアダムスでは、ヤマモーターとして主にギターを担当している山本精一が中心となっている「うたもの」バンド、羅針盤。彼の歌は決して上手いとはいえない。けれど、僕は、彼のように歌えたら、彼の歌のように生きることができたら、とさえ思う。どうしてだろう。
やっぱり音楽について書くと大仰になる。でも大仰なのは僕だけじゃなくて、「歌詞」もそうであることがとても多い。この羅針盤も例外じゃない。「詩」としては、とても読めたものじゃないのに、それがうたになると、とても心地よかったりする。不思議だなぁ。この不思議さについては、考えるための足がかりがなにもないのでとりあえず置いておくとして、大仰な表現・描写は何故いやなのか。それは、「私」と描写対象である何か、この場合には、羅針盤との関係が、特別でない、つまり、一方が、「私」である必然性がどこにも感じられないということによるのだと思う。「私」の固有性、換言すれば、交換不可能性。ほとんど自明に、価値あることとされるけれど、それはどうしてなのか。マルクスがかつて目指した、「類的本質」が実現された社会とは、竹田青嗣によれば、労働が、即ち存在の相互了解であるような社会だった。つまり、「他ならぬ、あなたなしで私は生きていくことができない」と、他者と絶えず確認しあうことが労働の、コミュニケーションの本質であり、それは本来、人間にとって不可欠なはずのもので、それが、「類的本質」とマルクスによって名指されていたものであった。なんだか脱線してきたけど、たぶんマルクスもそのことは自明視していた。でもすこし考えをめぐらせていると、必ずしもそうではないかもしれないと思った。それは上述したボアダムスの音楽に僕が感じたような、「私」から自由になることへの欲求というものが、一般的ではないのかもしれないけれど、少なからず存在するのは明らかな事実だ、と僕が思いあたったからだ。そういえば、「根を持つことと、翼を持つこと」は人間の本来的な欲求なんだったっけ。忘れてた。何だ。結局すこしも進んでないじゃないか。その相反する欲求を同時に満たすことは果たして可能か、というのが現代の(?)アポリアだったんじゃないか。