エクリチュール

野川

野川

読めない。ぜんぜん読み進まない。文章がまったく頭の中に入ってこない。それにもかかわらず、イメージが、鮮烈に残っている箇所がいくつもある。どうしてなのかわからない。わからないときはテキトーな、いい加減なことを言ってみる。
僕が思ったのは、この小説は純粋な独り言だということだ。独り言の形式を取った小説は他にもあるだろう(よく知らんけど)しかしそれらの声は外向きに発せられている。不特定の他者に聞いてもらうことを前提とした独り言である。(加藤典洋が言うようにそれが「親展」の形をとることも例外的にある。)しかしこの「野川」の声は内向きだ。まったく僕には届かない。正確に言えば、直接「声」の形のまま届くことはない。つまり、語られている言葉の意味はわからない。ところが、その声は、その当の声自体が作り出す世界内部で反響して、意味を剥奪された、響きとなって僕に到達する。
もう一つ、重要なのは、語られている物語、そして、語り手自身の物語が解体し始めており、言葉に、文章に意味を与えるシステムが機能不全に陥っているということだ。僕たちは物語なしでは生きられない。その物語には大きく二種類あって、一つは、「わたし」という主観的で感覚的な物語。もう一つは、「世界」という、個々の「わたし」の「地」の部分であり、またそれぞれの「わたし」同士のコミュニケーションを可能にする、客観的な物語である。しかし、この「野川」という小説においては、「わたし」が他の「わたし」そして「世界」を飲み込んでいき(球を裏返すイメージ)語り手の生きる世界が、空間的、時間的、精神的な遠近感・距離感を失って、あるいは混乱をきたしている。だから、語り手の声は僕には届かないし、意味のよくわからない細部が、たびたび前景化して、僕の脳裏に焼きつく。
やっぱりいい加減な文章になってしまった。(というか、多和田葉子について書いた文章とそっくりだなぁ)この小説でほんとうに重要なのは、高橋源一郎が「ニッポンの小説」で書いていることです。つまり、老・病・死の細部。
つくづく思うのは、書くことは生成的なプロセスだということ。(しゃべることもそうだけど、構造がちょっと違う)「生成的」というのは内田樹が言うように、書くことによって、「何か」が「私」を作り出すという意味合いである。決して「私」が「何か」を作り出すのではない。要するに、ここに書かれていることは、キーボードをたたいているぼくが考えてもいなかったことで、この文章の主語である「僕」は、現実のぼくとはまるで違うもののような気が、ぼく自身はしているということ。だから、何かを書くとき、語るときはいつも、少なからず嘘をついているような後ろめたさを感じる。でもそれは、どこかに、「ほんとうのこと」があるというのを前提としているわけで、と、ここである詩を思い出したので引用させてもらいます。

さらけ出そうとするんですが
さらけ出した瞬間に別物になってしまいます
太陽にさらされた吸血鬼といったところ
魂の中の言葉は空気にふれた言葉とは
似ても似つかぬもののようです


おぼえがありませんか
絶句したときの身の充実
出来ればのべつ絶句していたい
出なければ単に唖然としているだけでもいい
指にきれいな指輪なんかはめて
我を忘れて

谷川俊太郎 「夜中に台所でぼくはきみに話しかけたかった」より

あと、

言語は、渾然とした思いの無限な面と、それと同じく不明確な音の面の上に、同時に浮かび上がる一連の隣接した区分として表現できる

って言うソシュールの文章もぼくの考えを代弁している(ような気がする)。ここにすこし付け加えるなら、(荒川洋治さんの「散文は異常である」っていう考えと、保坂和志がどこかで言ってた言葉をヒントにして思いついた)ソシュールの言う言語は、「詩」の言葉であるとぼくは考える。なぜかというと、それが「面」であるからだ。「面」であるということは、それらが(ある程度)一瞬のうちに俯瞰できるということだ。しかし、散文は違う。散文は不可逆的な時間の流れに支配されており、その意味で、一次元的である。この一次元化のプロセスは、ほとんどの人が無意識に行っているようだけど、荒川洋治が言うように、これはかなり特殊な作業である。人はいつから散文的言語表現を行うようになったのか。人類史的にも、一個人の成長過程においても、考える余地はあるのではないだろうか。どんどん脱線していったけど、この脱線こそが、「書くこと=生成的なプロセス」ということだろう。(ほんとかよ)