冷蔵庫の扉は閉めたまま

球形時間

球形時間

容疑者の夜行列車

容疑者の夜行列車

カタコトのうわごと

カタコトのうわごと

頭の中がうるさくなることがある。最初は独り言なのだけど、それがいつしか会話に変わる。そうなってくるとかなりまずい。頭の中の声は、現実の世界を飲み込んでいき、世界と僕のコミュニケーションは遮断される。視覚・聴覚・触覚・嗅覚、最終的には味覚さえも、世界との通路としての機能を停止する。そうなると、世界は、世界に存在するあらゆるものは、僕の自我の一変容態に過ぎなくなる。そのとき僕の目の前に現れるのは、「他者」ではなく、僕と同類等格の「他我」、僕自身の鏡像に過ぎない。つまり、僕はこの世界でたった一人になる。
多和田葉子の小説は、僕にそういった状態を思い起こさせる。そしてそれが僕にとっての多和田小説の魅力であり、また多和田葉子的なものだと思い始めていた。しかし、今回読んだ「球形時間」においてはそのごく一部にしか、それは感じ取れなかった。僕が、多和田葉子の小説の本質であり、また僕にとっての魅力であったものは、本当は副次的なものに過ぎないのだろうか。次に読んだ「容疑者の夜行列車」は面白かった。でも、その「面白い」原因が、何なのかは判然としない。冒頭に挙げたような、感覚の想起もあるにはあるのだけど、どうもそれだけではないようだし、主な原因であるのかもよくわからない。結局その「わからなさ」、「わからない」まま受け入れることの出来ない「わからなさ」が、僕に多和田葉子の小説を読ませるのだろう。
ところで、最近「他者」として僕に触れてきて、頭の中の声を消してくれたのは冷蔵庫の振動だった。冷蔵庫といえば村上春樹の短編「アイロンのある風景」を思い出すけれど、きっと、ドアさえ開かなければ冷蔵庫は安全なんだ。