長い引用

考えるということは、たとえば、「どもる」ということによく似ているのです。「どもる」ということは、同じことを繰り返すということです。それから、結論に行き着かないということです。結論にたどりつく前に迂回するということです。それはたぶん、他人とコミュニケートするためのたった一つのやり方なのです。

わたしに「愛せなければ、通過せよ」ということばが奇妙に思えるのは、おそらく、わたしになにかを愛した経験がないからです。わたしには、なにかを愛することができるということがほんとうにはよくわからないのです。そして、これから、いつかわたしがなにかを愛することができるようになるのかどうかもわかりません。「愛せなければ、通過せよ」ということばをもし肯定するなら、わたしは永久に通り過ぎるばかりの人間になる可能性が高いのです……。

おそらく、「なにかを考える」ことは他の「なにかを考える」ことだけに関係があり、「なにかをする」ことは他の「なにかをする」こととだけ関係があるのです。われわれの……わたしの「なにかを考える」と「なにかをする」は、何の関係もないまま、放置されています。いつか、その間にほんとうのコミュニケーションが存在するときが来るのでしょうか。その時には、だれか、あなたとの間にコミュニケーションが打ち樹(ママ)てられるのでしょうか……。いつか、わたしにもなにかを……。

「…」が、シリアスさを過剰にしてしまっている感を受けるけど、すごく共感する。「コミュニケーション」と「おしゃべり」は全然ちがうもので、「おしゃべり」も大切だけど、ほんとうの意味で「コミュニケーション」する可能性を損なって、あるいは、「おしゃべり」=「コミュニケーション」だと思い込んで行われる「おしゃべり」はひどくつまらないものだと思う。