やたらカッコの多い文章。森達也の魅力について考えたこと。

世界と僕たちの、未来のために―森達也対談集

世界と僕たちの、未来のために―森達也対談集

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい

一昨日、森達也の講演会に行った。そこで「何故森達也にはたくさん仕事が来るのか」という質問があったのだけど、森さんは「むしろ自分が聞きたい」ということで結局、その質問には、講演会の主催者である対談集の編集者と、そこに来ていた、森さんにノンフィクションの仕事を依頼しているらしい、KKベストセラーズの編集者が「自分は何故森さんに仕事を依頼したか」に置き換えて答えた。簡単に言えば、二人の答えは「森さんはユニークな存在だから」というようなものだったと記憶している。森さん自身はあまり判然としない様子だったが、自分自身が仮にユニークだといえるなら、それは、「裸の王様の子ども」を例えに、「鈍感」であることに起因するのだろうと言っていた。僕もそのたとえは好きだし、少なくとも最近までは大いに納得させられていたのだけど、改めて、森達也のユニークさ、魅力について考えてみたら少し疑問がわいてきた。しかし例によってそれをうまく言語化できずにいた。(「言語化できない疑問」は「疑問」と呼べるのだろうか)

ところが今日、源一郎の文章を読んでいたらヒントになりそうなものを見つけた。それはノースロップ・フライという批評家の『よい批評家』を源一郎なりに要約したものなのだけど、そのなかで、「個人」と「エゴ」、「社会」と「群れ」という表現で、「考える」ことのできる人(それぞれの組み合わせの前者)とそうでない人(後者:「連想」のリズムでしか「考える」ことのできない人:僕はこちら側だろう)を区分けしている。森達也は(少なくともこの国においては)数少ない「個人」なのだと思う。彼は決して「群れ」には回収されない。そして彼が「個人」であることと、僕が彼から感じる「強さと優しさ」には密接な関係があると僕は考える。(「世界はもっと豊かで、人はもっと優しい」を読めばなんとなくわかると思う)しかし、僕は上記の前者・後者の差異をうまく説明することができない。