図書館と写真集

センチメンタルな旅・冬の旅

センチメンタルな旅・冬の旅

これはまぎれもなく「小説」。でも、これはすごく難しい。難しいけれど、間違っているのかもしれないけれど、僕は好きだ。是枝裕和の映画「誰も知らない」のスチール写真と、いくつかの文章。おそらく長女役の子の、蚊に刺されて赤く、大きくはれた腕を写した二枚がとてもいい。
花火

花火

うたたね

うたたね

空気があわい、あわい写真。基本的には、そういった写真は好きだ。でも、これはちょっとまずいんじゃないかと思った。写真を撮るという行為はその本質に暴力性を含む。でもあわい写真はそこから逃げる。ごまかす。そんなことは、ないことにする。というか、世界を幻想化する。意味に回収する。それは、別にかまわない。動かされはしないけれど、落ち着く。気分が良くなる。
ところが、川内さんは逃げない。ないことにはしない。でも川内さんがやったのは、暴力性を幻想化すること、意味以上のものを意味に無理やりはめ込んだことだ。その幻想化されたもの、意味にはめ込まれたものは、ほかならぬ「死」である。
優れた写真家は、その被写体が、決して自分の力が及ばないもの、自分によっては支配されえないものであることを感じ取っていると思う。そのことを知りながら、なお被写体と関わろうとする、欲求の挫折こそが、写真なのではないか。

結局またよくわからない結論にたどり着いた。本当に、言葉によって何かに近づくことは可能なのだろうか。