小説の読み方

アメリカの夜 (講談社文庫)

アメリカの夜 (講談社文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

インディヴィジュアル・プロジェクション (新潮文庫)

小説の読み方が、わからなくなることがある。というか、僕は全然、小説を読めていないんじゃないかと思うことがある。それは、読んだ小説があまり面白くなかったときだ。今年のはじめに読んだ「無情の世界」は面白かった(あまり好きではないが)のだけど、今回の二つは途中で飽きてきた。「アメリカの夜」のほうはそれでいいと思っているのだけど、問題は「インディヴィジュアル・プロジェクション」(以下「IP」)。飽きてきて、惰性で読み続けて、たまに面白いな、と思うことはありながらも長くは続かず、読了したあとに、解説が載っていた。執筆者は東浩紀。そこでの東の読みが結構面白いのだ。だから、その東の読みが「正しい」のであり、僕は間違っているんじゃないかと思ってしまう。東の読みは東自身によって次のように説明されている。

九十七年の僕によれば、この小説は、転移的で神経症的な世界からの脱出を主題としている。それに対して今の僕によれば、この小説は、多重人格的で分裂した世界の制御を問題としている。…僕は今、思想系の仕事の方で、分身と鏡像段階、多重人格の関係について考えていて…この解説もまた、「IP」にその問題意識を過剰にprojectして書かれたもののような気もする。…生きている作家を知っているということ、それも親しく知っているということ、それは読者とテクストの関係を極めて不安定なものにしてしまう。

ここから僕が読み取るのは、東が小説を読む際に、現実の「阿部和重」を前提としているということ、また、そうせざるをえないと考えているということであり、そして、明確な主題=作者の意図ありきの読み方をしているということである。そこまで考えて、何故僕がこの小説を面白いと思えなかったかがわかったような気がする。それは、東の読みの「正しさ」に裏付けられる。東の読みが正しければ、この「IP」という小説は全編通じて、明確な主題=作者の意図に貫かれており、それを超えたものは存在しない。まさにそのことによって、読者の読みは制限されてしまう。僕はそのようなものを「小説」だとは思わない。少なくとも、「小説」としては魅力を感じることが出来ないのだ。