「想像的なものの二つの解釈」におけるイメージの問題

文学空間

文学空間

ハンス・ベルティングによる論文「Image, Medium, Body」はW.J.T.・ミッチェルが著した『イコノロジー』における三幅対「イメージ・テクスト・イデオロギー」の後者二つを置き換えることから、彼が「テクスト」よりも根源的で普遍的であるとみなす「イメージ」についての学への導入を企図したものである。その試み自体興味深いものではあるのだが、ベルティングの議論についてここで詳述することはしない。その第八章「Iconic Presence」において、彼はイメージと不在の密接な関係について言及しているのだが、ここではそれをひとまず導入として用いるに留めることにする。引用しよう。

Images traditionally live from the body’s absence, which is either temporary (that is, spatial) or, in the case of death, final. This absence does not mean that images revoke absent bodies and make them return. Rather, they replace the body’s absence with a different kind of presence. Iconic presence still maintains a body’s absence and turns it into what must be called visible absence. (Belting, 312)

ここで指摘されていることを簡略化して述べるならば、イメージは身体の不在によって生じるものであり、そのままに保持された不在の身体が可視的な不在として現前すること、これがイメージ特有の現前、Iconic presenceということであろう。注意すべきなのは、ベルティングは不在を可視性との関連で考えていることである。すなわち、イメージの発生の場において、逆説的な事態が引き起こされるのはあくまで可視性の様態であって、不在であるところの身体それ自身は決定的な変化を被らないということだ。
このベルティングのイメージの捉え方は、モーリス・ブランショによる「想像的なものの二つの解釈」に従ってそのうち一方の解釈の側と対応させることができる。

イマージュは客体の後にくる。イマージュは客体の後続なのだ。われわれは見る、次いでわれわれは想像する。客体の後にイマージュは来るであろう。この「後に」は、事物が再把握されるためには一先ずそれは遠ざからねばならぬということを意味する。ただしこの遠ざかりは、一個の動体の単なる場所の移動ではない。動体はその時なおも同じものに留まるだろう。遠ざかりはここでは事物の核心にある。事物はそこにあった、われわれはそれを一つの理解という行為の生きた運動の中で捉える、(Blanchot,347=ブランショ,363)


 「遠ざかり」とはまさに不在化のことではないか。「見る」こととイメージすることの連関。ブランショが強調しているように、「後に」とは単なる時間的前後関係ではない。つまり、客体を実際に見た後でなければ、イメージすることができない、などというわけではない。この「後に」は「遠ざかり」として、「不在の身体」として、イメージに含まれているものなのだ。
また、ブランショは古典主義芸術もこの側の解釈に対応するものとして、「この芸術は類似を一顧の容貌に、イマージュを一個の肉体に帰せしめることを以て、類似を再び合体せしめることを以て誇りとする。イマージュは生気を吹き込む否定とな」る、と書いている。この個所はベルティングがイメージにとってのアニメーションとの本質的な関連について論じていることと結び付けることができるだろう(Belting,306-307)。
だが、ブランショにとって重要なのはむしろもう一方の解釈である。この解釈はほとんど強烈なまでに先のものと対立する。

イマージュとは一体何であろう。何ものもない時、イマージュはそこにその条件を見出す、だがそこで消え去るのだ。イマージュは中性を、世界の消滅を求め、何ものもそこではっきりと現れることのない無関心な底部にあらゆるものが立ち帰ることを希い、空虚の中にもなお存続するものの内奥を目指す。それがイマージュの真理なのだ。(Blanchot,345=ブランショ,361)

試論の冒頭におかれた以上の文章は、一読では理解しがたい謎めいた文章ですらある。だが、これはブランショが「遺骸的類似」と呼ぶ事態について論じ始める時に、明らかになり始める。
 遺骸的類似とは、要約してしまえば「それ自身への類似」のことであろう。つまり、もはや類似は似るべき対象をもたない。類似を可能にするその基体は不在そのものなのだ。しかしながら、それが類似として、イメージとして現象する以上は場を持たざるをえない。そこでそれは自身の上に生じざるをえないのだが、このときイメージは、同一性も、それを基盤とした差異も、さらにはオリジナルとコピーの一義的な関係も不可能になるような、「誰か」、つまり非人称の領域として開かれることになる。
これこそまさに「遺骸的」な事態なのだ。遺骸はもはや何ものかとして同定することができない。事物としては「ここ」にありながら、それはどこにもない。同時にその「どこでもない」場所が「ここ」なのだ。イメージはこのような場所と関連する。不在と現前、消失と生成が同時的で不可分な場所、あるいは非‐場所に。だがここでは何ものも意味を持たない。「イマージュの真理」とは逆説的な表現なのだ。むしろそれは真理と対立する。起源や終末も含めた、超越的な、あるいは高次の一つのもののもとに築かれうるあらゆるヒエラルキックな構造を否定する。ブランショは芸術を、真理との関係において定義されるものとは別の位相をもつものとして開示する。そこに現れるのはすべて「イマージュに身を委ねたもの」、「どれでもいいものとなった唯一のもの」なのだ。

一つの出来事をイマージュのうちに生きること、それは出来事についてひとつのイマージュを持つことでも、その出来事に想像的なものの無償性を与えることでもない。出来事は、この場合、本当に起こる。しかしながら「本当に」起こるのだろうか?(Blanchot,357=ブランショ、374)

この引用における最後の疑問文はいったいいかなる疑問なのだろうか。この後に続けてブランショは起こるもの(これは「出来事」の完全な言い換えとは言い切れないことに注意しよう)が「我々をその起こるものから、我々を我々から剥奪し、我々を外部に引きとどめ、この外部を「わたくし(je)」が「自ら(se)」を再認することのないひとつの現前へと変える。無限の段階を含む運動だ(Blanchot,357=ブランショ,374)」と述べている。つまり、その「起こるもの」は「我々に」起こるとはもはや言えないのである。そうだとすれば、そこでは決して「われわれ」という一人称複数は発語しえないはずだ。にもかかわらず、われわれはそのことに言及することができる。これは奇妙な事態ではないだろうか。ここに一見して「遺骸的類似」の側にイメージの本質を置くブランショの立場が、実際はそうではなく、あくまでもイメージは「二つの解釈」によって成立していることを問題にしているのだ、ということが明確化する。しかしながら、この「二つの解釈」の不可分さを「曖昧さ」としてブランショは提示するものの、それは「遺骸的」なものの方へほとんど還元されているように見えかねない。つまり、単にイメージを前にするのでなくそれに巻き込まれ、それを生きるという事態、われわれ自身がイメージとして非人称化する事態を、なぜわれわれが語り、理解できるのか、ということについては説明がなされてはいないのではないか。確かにブランショは「生あるすべての人間は、実際にはまだ類似なしにある(Blanchot,351=ブランショ,368)」とも述べている。だが、われわれは書くことによって、むしろそのことによってのみ死にうるのではなかっただろうか。そもそも、彼がイメージの問題を提起したのは書くことにおける孤独、すなわち彼が「本質的孤独」と呼ぶ事態においてであり、「想像的なものの二つの解釈」はその補遺として書かれたものであった。ならば、イメージは書くことと呼応していることに疑問はなく、そのことに立ち返らねばならない。
本質的孤独は遺骸的類似とほぼ同一の表現によって描かれている。たとえば、本質的孤独においては「『今ここ』が、『どこにもない』の中に崩れ去ったが、『どこにもない』が『今ここ』であり、そして、死んだ時間が、ひとつの現実的時間である。」と同時に、「私が孤独である時、私は孤独ではなく、この現在のうちにあって、既に、私は、「誰か」(Quel qu’ un)というかたちで、私に立戻っている。誰かが、そこに存在し、そこで、私は孤独なのだ」、というように(Blanchot,23-24=ブランショ,24)。そして、このような孤独において与えられるものこそ、イメージなのである(Blanchot,25=ブランショ,26)。
しかしなぜ、書くことによってこのような事態が引き起こされるのであろうか。書くこと、それは極めて素朴かつ単純に考えるならば、われわれの手(身体)によって、文字(媒体)が記されることである。さらに素朴さを継続させるならば、文字の配列によって形作られる語と、さらにそれから成る文、メタファー、物語がそれらを読むわれわれにイメージを喚起させる。漢字のような表意文字は言うまでもなく、アルファベットのような表音文字であってもおかれるコンテクストに従って、それ自体イメージでありうる。だが、ブランショを読んだわれわれにとってはもはや、書くこととイメージとの関係はこのようなものだけではない。両者の間には単に外在的で派生的なものではない、言い換えれば、イメージを書くのでも、書かれたものがイメージを生むのでもない、より本質的な関係がそこには見出されうるのだ。
ブランショは書くことに関しては「作品」、「書物」、「言語」との関連の中でその特異な事態について語っていく。ではイメージについてはどうか。「本質的孤独」においては、「視覚(見ること)」、「距離」、「接触」などがキーワードとしてあげられるだろうが、書くこととの間には断絶がある。これを埋めなければ、書くこととイメージとの関係はいまだ恣意的なものに留まりかねない。しかしそれはいかにしてなされうるだろうか。後者の語彙に注目してみたとき、それが身体的なものであることに気がつく。対して、前者がそれから切り離されてあることにも。おそらくここで、冒頭で批判するために引用してしまったようなベルティングの三幅対、「Image, Medium, Body」が補助線として、また彼が強調した「可視性」の概念も有効に機能するのではないだろうか。もちろんそれぞれの語の定義を再度、大幅に考察し直す必要は避けられないとしても。
また、「二つの解釈」のうちの前者を問題にしていく作業は、われわれは常に「誰か」という純粋な非人称の領域で生きているわけではないのだから、両者は不可分である以上、できうる限り推し進められねばならないものである。その臨界点で、もう一方の解釈を要請せざるを得ない矛盾がおそらくは生じるのであろう。
この二つの解釈が必然的であるということ。このことこそイメージが、われわれを変わることのない同一の者に留めることなく、また差異の無際限な連続に溺れさせることなしに、常に新たな生へと向かわせる、その可能性としての力そのものであることの証明ではないだろうか。もちろん、これはまだ具体性に欠けた素描にすぎない。しかし、なにか確信に似たものは間違いなく私のうちにある。それが作品として結実するのがいつになるかはわからないのだが。


参考文献(翻訳は引用の際適宜変更した)
Maurice Blanchot, “L’éspace litteraire”, Gallimard, 1955
ブランショ,M 粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』現代思潮社 1962年
―――――― 田中淳一ほか訳 『白日の狂気』朝日出版社 1985年
Hans Belting 「Image, Medium, Body: A New Approach to Iconology」2003年  

明証論と中性的なもの

デカルト的省察 (岩波文庫)

デカルト的省察 (岩波文庫)

1.はじめに
エドムント・フッサールモーリス・ブランショ、前者から後者への明らかな影響関係を見出すことは難しい。ブランショは学生時代、生涯の友人であり、最高の対話者であったエマニュエル・レヴィナスからフッサールの著書を紹介されその思想に触れていることは広く知られている。1930年という早い時期に『フッサール現象学における直観理論』を著したレヴィナスの紹介であれば、当時の水準としてはこれ以上ないほどに的確なものであったであろう。にもかかわらず、と言うべきか、ブランショは「中性的なもの」なる概念を中心にフッサールの明証論とは対立するようにみえる思考を展開していく。だがレヴィナスの『全体性と無限』を受容して以後、彼の思想には大きな変化が見て取れる。なおも「中性」は彼の鍵概念であり続けるが、「他者」への応答の問題に直面し、おそらく「中性」とは相反するであろう「私」の問題を問い直すように迫られているのだ。そして、ここにフッサールの明証論(を基礎とする現象学全体)に立ち返ることの必要が見出せるのではないか。本稿はそのことを問うための準備段階という位置づけになる。まずフッサールの明証論を、そして『文学空間』におけるブランショの思想を整理・粗描し、その間の相違を検討する中で、上記の問いに結実する萌芽のごときものを見出すことを目的とし、議論を展開したい。

2.フッサールの明証論
 フッサール現象学は初期の非‐自我論的段階から発生を論じる後期に至るまで、明証性の学として一貫している、と考えることができる。確かに「明証」の定義に含まれる領域は後期に向けて拡大するが、その問題意識は常に「学の基礎付け」にあると言えるだろう。だが、なぜ、明証概念が現象学の、ひいては学一般の基礎となりうるのか。まず、フッサールの自身の表現を用いて「明証」とは何か、確認することにしよう。
 彼は『デカルト省察』の第一省察、第六節において次のように述べている。

明証とはすべて、存在するものあるいはある様態で存在するものを、「それ自身」という様相において、それゆえ、どのような疑いも排除するような完全な確実性において、そのもの自身をとらえることである。だからと言ってそれは、明証的なものが後になって疑わしいものとなる、あるいは、感覚的な経験の例で分かるように、存在すると思われていたものが仮象と判明することになる、といった可能性を排除するものではない。(中略)そうした事態になる可能性が開かれていることは、明証の働きへの批判的な反省によって、いつでもあらかじめ認識することができる。
フッサール,2001,40)


ここだけ取り出して読んでしまうと、一行目とそれ以降の記述に矛盾が生じかねない。しかしながら、ここでは二行目冒頭の「後になって」という表現に注目しなければならない。すなわち、明証とは「現在」と不即不離の疑いえない体験なのであり、その現在?における明証体験は、時間が経過したのちの現在(1)において反省され、疑わしいものとなりうるが、今度はその疑いそれ自体が現在(2)と不即不離の明証体験となるのである。この常に現在的な明証から出発すること。そのことで自然科学のように、自らの根拠づけが無限背進・自家撞着に陥るような空中楼閣としての在り方を学は脱することができるのである。
 ところがこのままでは、いつまでもどこにも辿りつくことがない。ここで引用最終行にある「明証の働きへの批判的な反省」が重要になり、日常的な生(自然的態度)における明証とは区別される、より確かで普遍的な、学を基礎づけうる明証が探求されるのだ。
 それではそのような明証とは何か。フッサールは「世界が現にあること」について問う。通常われわれは、次のように考えているだろう。

すべてに先立って世界が存在することは自明であって、誰もそれをとりたてて一つの命題で表現しようなどと考えついたりしない。何しろ、私たちはこの世界が常に疑いなく存在するものとして眼前にあるような、持続的な経験を持っているのだから。(フッサール,2001,42)

 しかし、フッサールは学の基礎付けとして世界存在の明証は不十分である、と述べる。世界はあくまで「感性的経験の持つ明証において」与えられているのであって、その「経験の連関もまた、脈略のある夢という名のもとに、仮象であることが判明することもありうる」のである、と。ならば、世界よりもさらに根源的な明証として何が考えられるのか。それこそがデカルト的コギト*1 である。世界の存在が仮象であったとしても、それは私が持つ現象として無ではない、すなわち。その「私」は疑いえないであろう、ということだ。少々長くなるがフッサールの表現を引用しよう。

世界内部のすべてのもの、すべての時空的な存在が私にとって存在するとは、私にとって通用している、ということを意味している。しかもそれは、私がそれらを経験し、知覚し、想起し、なんらかの仕方で思考し、判断し、価値づけをし、欲求し、等々をすることによってなのである。これらすべてをデカルトは、周知のように、我思う(コギト)という名称で呼んだ。世界とは、私にとって、そもそもそのような我思う(コギト)において意識され、私にとって通用しているような世界以外のなにものでもない。世界は、その普遍的なおよび特殊的な意味と存在の効力全体を、もっぱらそのような、思うこと(コギタチオーネス)から得ている。(中略)私がこの生の全体を眺め渡す地点に立ち、直進的に世界を存在するものと捉える存在信念の遂行をすべて差し控え、眼差しをもっぱらこの生そのもの、世界についての意識へと向けるとき、私は自分を思うこと(コギタチオーネス)の純粋な流れを伴った純粋な我(エゴ)として捉えることになる。
フッサール,2001,49)

 上の記述から「フッサール独我論者だ」などという批判を導き出すとすれば、それは甚だ見当違いである。フッサールの懐疑は徹頭徹尾方法的なものであり、彼は世界や他者の存在を前提にしたうえでこのような議論を展開しているからだ。実際この後フッサールは、間主観性や発生の問題、すなわち他者や歴史の問題を論じていくことになるが、ここでは議論しない。引用の最終文を思惟の自己責任の表明と受け取って次の章へ移ろう。

3.『文学空間』における「書く」体験の位相
 『文学空間』の第1章「本質的孤独」においてブランショは、「書く」という体験の特異性について語っている。この体験はフッサールの明証論と全く逆の思想のようにも見える。あるいは、メタバシスとして批判されるだけのようにも。だが、果たして本当にそうだろうか。ブランショは、一見謎めいた断言を連ねていく。彼は、書くことが人に「私は」という能力を失わせる、と言う。それが「終わりなきものに身を委ねることであるとき」。なぜ「書くこと」が「終わりなきもの」となるのか。この問いに対する明確な答えを提出するのは極めて困難だ。ブランショ自身この断言、ときには仮定をひたすら繰り返すからだ。しかしできる限り近づこう。まず、書く者は書かれた作品から引き離されているということ、それを読むことができないということが語られる。これは作品が表現ではなく一個の存在であり創造されたものとしてみなされていることに由来するであろう。すなわち、作品とは現実存在からは断絶したものとしてみなされているのだ。よって、作品は無限定な場であり、それを書くことはおそらく不可能な経験、つまり、そこでは経験する「私」が実存しえないような経験なのである。
 ブランショはおそらく、フッサールの言う明証と単純に比較することができぬような次元の本源的な体験を、書くことに見出そうとしている。たとえば、彼は次のように書く。

私が孤独であるとき、私は孤独ではなく、この現在のうちにあって、既に、私は、「誰か」(Quel qu’ un)というかたちで、私に立ち戻っている。誰かが、そこに存在し、そこで、私は孤独なのだ。孤独であるという事実は、私が、私の時間でも、汝の時間でも、共通の時間でもなく、誰かの時間である死んだ時間に、属しているということだ。誰かとは、誰ひとりいない場合にもなおも現存するものだ。私が孤独であるところでは、私がそこに存在するのではなく、誰ひとりいるのでもない、だが非人格的なものが、そこに存在するのだ。
ブランショ,1962,24)

ここで言われている「孤独」は一般に言われる孤独とは区別される、「書く」際の孤独である。しかし、ここから読み取れるのはブランショが「非人格的なもの」(これは「中性的なもの」と等置される)を「私」よりも根源的なものとして考えようとしているのではないか、ということだ。この孤独の空間では「幻惑が君臨する」という。「幻惑」とは何か。これをブランショは、見ることと接触が同じものになってしまう体験として定義している。そしてこれによって与えられるものが「イマージュ」である、と。さらにそのイマージュがもたらす事態を次のように記述する。

われわれを幻惑し、われわれから、意味を与える能力を奪い去り、おのれの「感覚的」性質を捨て去り、世界を捨て去り、世界の前に引き退き、われわれをそこへと引き寄せるもの、このものは、もはやわれわれにおのれを開示しない。だが一方、それは、時間における現在とも空間中の現存とも無縁な、ある現存のうちで、おのれを断言している。この分離が、さきには、見ることの可能性であったのだが、今や、視線の唯中で、不可能性へと凝固するのだ。
ブランショ,1962,26)

いまだ読解できない表現も含まれているが、これはフッサールの言う視ることSchauen、あるいは見ることSehenが不可能になる、あるいはおびやかされる体験のことではないだろうか。だとすれば、ブランショの思想はやはりフッサールの明証論と徹底して相反するものと言えよう。しかし、ひとつ前の引用でブランショは、「非人格的なもの」の根源性について語りながらなおも「私」と言っていなかっただろうか。これが彼の不徹底でなければ、「私」と、もはや「私」ということのできない「非人格的なもの」はどちらかの優位を決定することのできないような形で、ともに根源的なのである、と解釈することも可能なはずである。実際、レヴィナスの主著『全体性と無限』以後の『終わりなき対話』、『存在するとは別の仕方で、あるいは存在の彼方へ』に応える『災厄のエクリチュール』においては、他者への応答についての記述の中で「中性的なもの」(≒非人格的なもの)の重要性をなお論じる一方で、新たな「私」の在り方が模索されており、その両者がともに思考されねばならないとされているのだ。つまり、『文学空間』では両義的、あるいは曖昧な関係にあった「私」と「中性的なもの」は、意識的に分化されて考えられているのだ。
しかし、そもそもフッサール現象学においても間主観性を論じたさらにその先で、もはや「私」と言い得ない領域は問題になっていたはずである。ブランショの「中性的なもの」の主要な起源は、ハイデガー存在論批判として展開されたレヴィナスの『実存から実存者へ』における「il y a」であると考えられるし、直接的にはレヴィナスからの影響を考えることが妥当であろうが、さらにフッサールへと立ち返ることで晦渋なブランショの思想を理解していくことが可能なのではないだろうか。

参考文献

上田和彦 『レヴィナスブランショ水声社 2005
田口茂 『フッサールにおける〈原自我〉の問題』 法政大学出版局 2010
新田義弘 『現象学とは何か』 講談社 1992
フッサール,E 立松弘孝訳 『論理学研究4』 みすず書房 1976
―――――― 渡辺二郎訳 『イデーン?‐?』 みすず書房 1984
―――――― 浜渦辰二訳 『デカルト省察岩波書店 2001
ブランショ,M 粟津則雄・出口裕弘訳『文学空間』現代思潮新社 1962
レヴィナス,E 佐藤真理人・桑野耕三訳『フッサール現象学の直観理論』 法政大学出版局 1991
―――――― 西谷修訳『実存から実存者へ』 筑摩書房 2005 
ブランショ 生誕100年』 思潮社 2008

*1:もちろんフッサールは単にデカルトに帰ったわけではない。レヴィナスによれば両者の差異は次のようなものである。「デカルトに比してフッサールがなしとげた前進は、認識と対象とを分離しないこと――より一般的にいえばわれわれの生のうちで対象の現れる様式と――対象の存在を分離しないことに存する。」(レヴィナス,1991,53)

 「セバスチャン・サルガド アフリカ」展から、未来へ

Africa

Africa

1.はじめに セバスチャン・サルガドとの再会


『他者の苦痛へのまなざし』。あまりに直截的なタイトルに目がとまり、その黄色い本を図書館の書棚から引き抜いたのは、4年前の春のことだった。
当時、私は「フォト・ジャーナリズム」と呼ばれる表現・伝達行為に関心を抱いていた。自らの未来をそこに賭けるべきではないかとさえ考えていた。さまざまな写真集から私は一つの訴えを聞き取った。世界は誤りに満ちている。よって世界は変革されるべきなのだ。そしてあなたも「誤り」の一部である以上、変革の主体たらねばならない、と。
私は自分の無知に驚き、知ることを欲した。なぜこのようなことが起こりうるのか、それを止める手立てはありうるのか。しかし、世界の否定的な側面を新たに知り続けることは私を萎えさせた。否定的な世界の前で、少なくともその瞬間、すべての写真は無力だった。それどころか、否定の主体は写真それ自体なのではないか、という疑問さえ生れてきた。
だから、セバスチャン・サルガドとの出会いは驚愕に満ちたものだった。なぜなら彼が写し取った世界は全て美しかったから。広大な砂漠を渇いた風と巻き上げられる砂粒から身を守るため、布で前身を包み込み、絶望の表情を浮かべながら力なく歩く家族の姿、劣悪な環境での労働を強いられる真っ黒な炭鉱労働者たちの顔、大樹の木陰に束の間憩う難民の群れ。「誤り」の象徴であるはずの被抑圧者たちは、例外なく、美しかった。
だが、それはあくまでも写真だった。その向こう側にいるはずの人々にとって、私が彼らに美しさを見てとることが何の足しになろう。私の疑問は方向を見失った。
そんな宙吊り状態に終止符を打ったのがソンタグの例の著書だったのだ。正確に言えば、私がそのように利用しただけ、つまり私は、出口の見えない問題に向き合うことからの逃亡を正当化する根拠を欲していたのだ。
しかし、私に正当化以外の何が出来るというのか。「問題に向き合うこと」もまた正当化のひとつのパターンに過ぎないのではないか。生れてきてしまったこと、いま生きてしまっていること、これからも生きてしまうだろうことについての正当化。「正当化」などと厳めしい言葉を用いる必然性もないだろう。簡単に言い換えれば言い訳だ。生きることは言い訳の連続なのだ。
私は24年もそれを続けてきたことになる。24。その過不足のなさは運動よりも停止、始まりよりも終わりにふさわしい数字だ。もちろんそんな印象はほとんど虚構に違いない。だが虚構以外の何が私を支えうるのだろうか?言い訳を意味や価値に変換しうる虚構のほかに。
私はセバスチャン・サルガドの名と3か月前に再会した。写真史を概観する作業の中でだった*1。直後、翌月末からの展覧会開催を知り、過去に逃げ出した問題へと立ち戻り、もう一度闘う機会を得たことを感じたのだった。
以下は私が写真展から考えたこと、サルガドの写真についての試論である。これもまた私を支える虚構たるべく書かれたものにすぎない。しかし、同時に私は信じ、願ってもいるのだ。サルガドの写真が虚構を超えた真実を含んでいることを。私の文章がその真実にわずかであれ触れ得ることを。そして、それがこれを読んだあなたに伝わってくれることを。


2.「スーザン・ソンタグ」を救うために


スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』は、ヴァージニア・ウルフ『三ギニー』についての論述から開始される。
『三ギニー』は、「ロンドンのある高名な弁護士」からの手紙による、「どうしたら私たちは戦争を未然に防げると考えますか」という問いに対する、三年越しの返答として書かれている。
ウルフはまず、問いに含まれる「私たち」に疑いを挟む。「私」は女性であり、「あなた」は男性です。そして「歴史上、女性の銃に撃たれて倒れた人間はほとんどいません。小鳥や獣の大部分は私たちではなく、あなた方によって殺されたのです。つまり、私たちが共に参加していない事柄に判断を下すことは難しいのです」(ウルフ,2006,8)。「私たち」は女性、「あなたたち」は男性。両者が同じ「私たち」としてひとつの問いを思考することは可能なのか?ウルフはそこで写真を提示する。スペイン内乱の写真。

これらは見て気持ちのよい写真ではありません。たいがいは死体の写真ですから。(…)それはひどく手足を切断されているので(…)豚の死体かと見えます。しかし、あそこにあるのは死んだ子供たちであることは確かですし、こちらは家の一部であることに間違いありません。爆弾が家の横腹に穴を開けたので、おそらく居間だった所に、いまも鳥籠がぶら下がっています。でも家の残りの部分は、まるで中空にぶら下がっているスピリキン〔木片などを積み上げ、他を動かさずにとるゲーム〕のようです。
(ウルフ,2006,14)


さらにウルフはこう続ける。

私たちの背後の伝統がどんなに違っていても、私たちの感覚は同じです。そしてこれらの写真は狂暴なものです。サー、あなたはそれらを「恐怖と嫌悪」と名付けていらっしゃいます。私たちもまた、それらを恐怖と嫌悪と呼びます。そして同じ言葉が口をついて出てきます。戦争は忌まわしい、野蛮だ、万難を排して戦争は止められなければならない、とあなたはおっしゃいます。私たちはその言葉をおうむ返しにくり返しています。戦争は忌まわしい、野蛮だ、戦争は止められなければならない、と。なぜかといえば、とうとう今、私たちは同じ写真を見つめ、あなたと共に同じ死体を、同じ破壊された家を見ているからです。
(ウルフ、2006,15)

「同じ写真」を前に、「私たち」が可能になる。戦争に反対する「私たち」が。ウルフはそう述べている。ソンタグが指摘するのはまさにそこだ。しかし彼女に言われるまでもなく、現代を生きる「私たち」にとってそんなことは自明ではないか?戦争にはさまざまな立場があり、それによって見方が異なるということ。写真もまた然り。それは時に憎悪を駆り立て、戦争の駆動力となるということ。仮に、戦争反対へのコンセンサスが形成されたとしても、それは即ち戦争抑止にはつながらないということ。それらは「私たち」にとって自明なはずだ。
しかし、ソンタグはそのような「私たち」さえ糾弾するだろう。彼女はこう述べるのだから。

他者の苦痛へのまなざしが主題であるかぎり、「われわれ」ということばは自明のものとして使われてはならない。
(ソンタグ,2003,5)

ソンタグは、「われわれ」を常に拡散させるかのように、さまざまな戦争におけるまなざしの表現とその受容のされ方を次から次へと書き連ねる。
アルジャジーラによるイスラエル軍の破壊行為の放映、ニューヨーク・タイムズ掲載のタリバン負傷兵の写真、エルンスト・フリードリッヒ編著『戦争に反対する戦争』、「市民が見つめた9.11写真展」、ロバート・キャパが撮ったスペイン内戦の写真、ユージン・スミス水俣』、ゴヤ『戦争の惨禍』、クリミヤ戦争南北戦争サイゴンの路上でヴェトコンの捕虜が射殺される瞬間、ビアフラ、ルワンダシエラレオネ
それゆえ、論点も必然的に多様化する。どれも無視できない重要なものばかりだ。
「流血」の商業的価値、苦しみの図像へ向かう欲求、写真に撮られる戦争・撮られない戦争、撮影のための演出、影響力を恐れた政府による検閲、異国趣味、対象の美化・聖化、イメージの衝撃に対する慣れ、集団的記憶なるフィクション、無力感、シニシズム、無関心。
細分化して挙げていけばきりがない。しかし、核にある問いは明確だ。すなわち、写真は世界をよい方向へと導きうるのか?そのために写真は、それに対する私たちの態度はどうあるべきなのか?この二つの問いである。
彼女の答えは、それまでの論述の正確さ・鋭さに比べひどく弱々しいものだ。それは彼女自身の、答えに対する受け入れがたさを感じさせる。(他者の苦痛を対象とした)写真の肯定的作用はひとつ、「われわれが他の人々とともに住むこの世界に、人間の悪がどれほどの苦しみを引き起こしているかを意識し、その意識を拡大させ」ること(ソンタグ,2003,114)。すなわち、知ることへのいざないである。しかし、このような作用の対象となる受容者は「道徳的・心理的に成人」であることが前提とされる。なんと陳腐なフィクションだろうか!さらに彼女は根拠なくこう付け加える。

一歩退いて考えることは何ら間違っていない。何人かの賢者のことばをパラフレーズするならば、「誰かを殴るという行為はその行為について考えることと両立しない」
ソンタグ,2003,119)


引用した文言だけについてその正誤を判断することなどもちろんできない。しかし、彼女の論述の文脈の中ではあまりに唐突であり、無理があることは否めない。ソンタグほど明晰な書き手が、あきらかな無理を放置するわけがない。実際、彼女は数ページ後のこの本の結末において、知の可能性すら否定してしまうのだ。そのとき彼女の目の前におかれているのは、ジェフ・ウォールの写真作品「戦死した兵士たちは語る(1968年冬、アフガニスタンのモコル付近における赤軍偵察の待ち伏せ攻撃のあとの幻影)」*2である。この想像的写真は、「13人の死んだロシア兵」を写している。(彼らは現実には生きた人間だろう。背景はセットである。)兵士たちは、頭蓋骨を割られたり、手がちぎれたりしているが、彼らの一部は笑いながら会話を交わしている様子だ。
このような作品についての描写の後、彼女はこう述べる。そこでは彼女自身が逃れることのできない絶対的「われわれ」が定義されている。

死者たちは生きている者たちにたいして、自分の命を奪った者にたいして、目撃者たちにたいして、またわれわれにたいして、まったく関心がない。彼らがわれわれのまなざしを求める必要がどこにあろう。彼らはわれわれに何を言う必要があろう。「われわれ」――この「われわれ」とはこの死者たちの体験のようなものを何も体験したことのない全ての人間である。――は理解しない。われわれは知らない。われわれはその体験がどのようなものであったか、本当には想像することができない。戦争がいかに恐ろしいか、どれほどの地獄であるか、その地獄がいかに平常となるか、想像できない。あなたたちには理解できない。あなたたちには想像できない。戦火の中に身を置き、身近にいた人々を倒した死を幸運にも逃れた人々、そのような兵士、ジャーナリスト、救援活動者、個人の目撃者は断固としてそう感じる。その通りだと、言わねばならない。
ソンタグ,2003,126-127)

ほとんど彼女は絶望している。写真にたいして、知にたいして、自分自身に対して。このような結論に至ったがゆえに二つ目の問いに肯定的な形で答えることはなかった。だが、そのことはソンタグの著書の価値をいささかも減ずることはない。なぜなら、彼女の博識に支えられた思考の歩みは徹頭徹尾真摯なものであり、私たち読者はその先からはじめることができるからだ。ならば早速一歩目を踏み出そう。私は彼女によって否定された芸術的・美的な写真を肯定に転ずることから始めようと思う。
それは無根拠なわけではない。彼女が絶望を強いられたのは他ならぬ「芸術的」写真の前であるからだ。そして、先に絶対的とした「われわれ」からは、どこか戦場に行ってしまえば即時に抜け出せるはずであり、彼女にそれが物理的に不可能だったとは思えないからだ。おそらく彼女は信じているのだ。写真の、言葉の、知の、芸術の間接性を。よって、目指すべきはその「信」の救済であるだろう。
これからその可能性を探るのはセバスチャン・サルガドである。彼女は名指しでサルガドを批判している。引用しよう。

世界の悲惨(…)を撮り続けている一人の写真家、セバスチャン・サルガドは、美しいものは偽物だというこの新たなキャンペーンの主たる標的になってきた。(…)問題は、写真が無力な人々、無力な状態へと追いやられた人々に焦点を定めているところにある。無力な人々がキャプションの中で名前を与えられていないのは意味深長である。被写体に名前を付さない肖像は、意図的ではないにせよ、有名人崇拝の文化に(…)加担している。有名な人々にのみ名前を付与することはその他の人々を、職業集団、民族集団、悲惨な状況にある集団の代表例という存在に格下げする。三十九ヶ国で撮影されたサルガドの移住写真は、移住という一つの見出しのもとに、原因も種類も異なるあまたの悲惨をひとまとめにしている。グローバルに捉えた苦しみを大きく立ちはだからせることは、もっと「関心」をもたねばならない、という気持ちを人々の中にかきたてるかもしれないそれは同時に、苦しみや不幸はあまりに巨大で、あまりに根が深く、あまりに壮大なので、地域的な政治的介入によってそれを変えることは不可能だと、人々に感じさせる。このような大きな規模で捉えられた被写体にたいしては、同情は的を失い、抽象的なものとなる。だがすべての政治は、歴史がすべてそうであるように、具体的なものである。
ソンタグ,2003,76-77)

これもまた重要な論点を含んでいる。対象の選択、無名化、抽象化、鑑賞者に与える無力感*3。しかし、具体的な批判点については後に検討する。まずは足場を固めよう。写真と知の無力性についての反論が先決だ。依拠するのはジョルジュ・ディディ・ユベルマンの著書『イメージ、それでもなお』である。ソンタグを絶望から救うための本としてこれほどふさわしいタイトルはあり得まい。だが、果たしてユベルマンは、彼女を救えるのだろうか?


3.イメージ、それでもなお、あるいは、すべてに抗して


アウシュヴィッツ絶滅収容所では「ゾンダーコマンドー」、囚人たちの「特別部隊」が結成されていた。私はこの「部隊」の存在を知らずに生きてきた。無知が恥辱であること、自己の無知に対する憤りを感じたのはおそらく四年ぶりのことだろう。彼ら、ゾンダーコマンドーは数ヶ月たつと廃絶され、新たなメンバーに入れ替わる。「前任者の死体を焼くことが次の部隊にとっての通過儀礼だった」。彼らの任務とは何か?

彼らの同類の死を数千単位で処理すること。最後まで嘘をつきとおすのを強いられること(犠牲者たちに彼らの運命を伝えようとしたゾンダーコマンドーのメンバーは、生きたまま焼却場の火に投げ込まれ、友人たちがその執行に立ち会わなければならなかった)。自分自身の運命を知りつつ何も語らないこと。男たち、女たち、子供たちがガス室へ入るのを見届けること。叫び声や壁を打ち鳴らす音、最後のうめきを耳にすること。続いて、扉を開けると崩れ落ちてくる「筆舌に尽くしがたい人間の山積み」――肉でできた、彼らの肉、われわれ自身の肉でできた、「玄武岩の柱」――を、まるごと引き受けること。死体をひとつひとつ引っぱり出し、(少なくともナチスが脱衣所という解決策を思いつく以前は)服を脱がせること。すべての血と体液、積み重なった血膿を、放水で洗い流すこと。金歯を「帝国」の戦利品として取り外すこと。死体を焼却棟の大かまどにくべること。非人間的なリズムを保ち続けること。
ユベルマン,2006,11)


記述は引用した部分でまだ半分だ。私たちは言いたくなるかもしれない。ソンタグに倣って。われわれは理解しない。知らない。想像できない、と。だがそれは彼らに対する最悪の裏切りであると、言わねばならない。なぜなら、彼らの唯一の希望はわたしたちに想像させることだったのだから。ゾンダーコマンドーの存在は完全に隠されていた。任務も極秘のものだった。それゆえ、逃走や反抗の可能性はほぼゼロだった。彼らに残された最後の人間的な振る舞い、それこそがイメージの発信だったのだ。1944年、ポーランドレジスタンスの命を受け、ひとりの民間労働者がゾンダーコマンドーのメンバーたちにカメラを渡すことに成功した。彼らは厳密な逆監視体制を敷き、四枚のイメージがもぎ取られた。

フィルムの断片はカメラから取り出され、、中央収容所へ戻され、SS用食堂の職員へレナ・ダントンの手により歯磨き粉のチューブに隠されて、アウシュヴィッツから持ち出されることだろう。その少し後の一九四四年九月四日、フィルムはユゼフ・ツィランキェーヴィチとスタニスワフ・クウォジンスキというふたりの政治犯によるメモを添えられ、クラクフポーランドレジスタンスのもとにたどりつくことになる。
ユベルマン,2006,21)

ユベルマンが、「イメージ、それでもなお」と語るのはこの四枚のイメージゆえである。写されているのは、ガス殺された死体の野外焼却溝での処理の様子とガス室へと追いやられる女性たちの姿だ。これらの写真は「語りえぬもの」、「想像・表象不可能性」などといった一見哲学的な言葉で、アウシュヴィッツについて語ることを恥じ入らせるに十分だろう。
しかし、結局のところこの四枚の写真を前に私たちは何ができるというのか?想像すること。それは可能だと認めよう。だが、その営みは新たに「アウシュヴィッツ」と言う物語を形成するだけではないのか?そうではない。ゾンダーコマンドーたちによる四枚の写真が証言しているのは「アウシュヴィッツの真実」などという理解には還元されないからだ。つまり、それらが証言しているのは、イメージが「すべてに抗するもの」だ、ということなのだ。
そもそも、「ユダヤ人の絶滅」という観念が思考可能になるのはなぜだろうか。それはユダヤ人の「すべて」を想定することによってだろう。これまでアウシュヴィッツが思考不可能・想像不可能・表象不可能などと考えられてきたのもまた、その思考・想像・表象が「すべて」を志向していたからではないか。すべてか無かの二者択一。表象不可能性の唯一の表象として、クロード・ランズマンショアー』が扱われてしまうのはそれゆえなのだ。
だが、イメージが「すべてに抗するもの」でありうるのは、四枚の写真がゾンダーコマンドーたちによって、絶望の淵からもぎ取られた、という物語にのみ根拠を置くのではない。それはイメージの本質なのだ。
イメージ。極めて多義的な言葉だ。しかし、ここでは簡単に定義してみようと思う。イメージとは、「何かを志向、あるいは指し示しながら、その何かそのものではない、想像的な感覚によって形成されるもの」である、と。例えば誰かのイメージ。表情の変化、声の抑揚、肌のぬくもり、髪のにおい、などと言ってみたとき、それらは誰かそのものではない。にもかかわらず、その誰かを確かに志向し、指し示しているのではないか。そしてそれは、感覚そのものではないが、感覚に似た作用=想像によって作られているはずだ。
この定義に基づけば、イメージはその二重性によって特徴付けられるだろう。「何かではない」という否定。「何かへ向かう」という肯定。そしてこの二重性はけっして静態的なものではありえない。ユベルマンは次のように表現している。

言語記号と同様に、イメージは自らのやり方によって――すべての問題はそこにある――、ある効果をその否定とともに生み出すのだ。イメージは代わる代わる、フェティッシュでありかつ事実、美の伝道者でありかつ耐えがたきものの場、慰めでありかつ慰めようのないものである。イメージは純粋な幻想でもなければ、全き真理でもなく、ヴェールとその裂け目をともに揺さぶる弁証法的な鼓動である。
ユベルマン,2006,105−106)

イメージの二重性は「弁証法的な鼓動」を生み出す。この運動性、捉えがたさこそがイメージが「すべてに抗するもの」である所以なのだ。つまり、「すべて」に抗するのは、写真の複数性(4枚)や断片性だけではないのだ。「ヴェール」とは、イメージが何かそのものであるかのように装う覆いであり、「裂け目」とはその覆いを突き抜けて何かそのものへと向かう通路のことである。さらにユベルマンはこのようにも言っている。

「あらゆる言葉が動きを止め、あらゆるカテゴリーが頓挫するところ」*4――反駁可能であれ、諸々の命題が文字通り不意をつかれるところ――においてこそ、ひとつのイメージが出現しうるのだ。フェティッシュのイメージ=ヴェールではなく、現実の閃光を噴出するがままにさせるイメージ=裂け目である。(…)われわれはもはや相互了解的な経験の領域にではなく、諸々のテリトリーすなわち限界の混乱を生み出す、引き裂くような体験のなかに位置している。
ユベルマン,2006,107)

 

ユベルマンが主張するのは、イメージはその出現の瞬間においては裂け目であるということ。その場は同定不可能なものであるということ。そして、その体験はイメージと私とのあいだに均質な空間を作り上げることのない、引き裂くようなものである、ということだ。私がサルガドの作品を前に感じたものこそまさに「引き裂き」である。だが、まだサルガドについては語らない。ユベルマン自身が述べているように、彼がここでラカンを参照しつつ語っているのは心的イメージについてであり、写真についてではないからだ。
写真イメージはいかなる点において心的イメージと区別されるのか?まずそれはフィルムや印画紙などの物質と不可分である。さらに、先に定義したイメージの作用がカメラという光学装置、現像、焼付けという化学的操作によって代理されてしまっているのだ。この二つの差異によってイメージの二重性は複雑化する。
イメージは何かを志向する、と書いた。しかし、写真においては、もはやイメージは志向しない。カメラと写真の指示対象はかつて現実に対面しており、二重性によって、すなわちその対象が「何かではない」という否定性と表裏一体であることによって特徴付けられるような、イメージ特有の志向性はそこにはない。よって、写真イメージに対する志向は常に挫折を強いられる。にもかかわらず、対象は存在の強度を持って現前するように感じられる。それは写真が物質として現前することと混同されるからなのか?もちろんそれもあるだろうが、それだけには還元されない。ジャン=リュック・ナンシーの術語を用いて言うならば、写真イメージは志向が挫折する「内奥」へと「退隠」することによって私と区別され、その区別はひとつの存在を内包する「世界」を告げ知らせる*5。しかし、写真イメージに「内部」はなく、すべては平面化され、前面化されている。それゆえ「内奥」は区別を保持したまま、すなわちその内密性を保ったまま、露呈される。そしてこの内密性こそが「すべてに抗する」ものなのだ。*6このとき写真イメージと私との関係は極めて逆説的なものである。私は指示対象に「接触しない触れ方によってのみ触れうる」のだ。つまり、その接触は感覚的な次元を超え出ている。
そして、この逆説的な接触可能性こそ、写真イメージが私を欲望させるものなのだ。さらに、この欲望は知ることへと向かう。 
そもそもソンタグは、『他者の苦痛へのまなざし』ではじめて絶望したのではなかった。1977年に出版された『写真論』の一節。

根源的な恐怖の写真目録との最初の出会いというものは、一種の啓示、原型としての現代の啓示、否定の直覚である。私にとってそれは、1945年7月、サンタ・モニカの本屋で偶然見つけたベルゲン=ベルゼンとダッハウの写真であった。写真であろうと実人生であろうと、かつて私が眼にしたものでそれほど鋭く、深く、瞬時に、私を切りつけたものはなかった。それらの写真を見る以前(私は十二歳だった)と見たあとで、私の人生は二つに分けられるといってもおかしくないだろう。それらを見てなんの役に立ったのか。それらはただの写真で、私がろくに聞いたこともなければ自分でどうすることもできない事件、想像もつかない、和らげようもない苦悩を表していた。それらの写真を見たとき、私のなかでなにかが壊れた。ある限界に達したのだ。恐怖ばかりではなかった。私は癒しがたい悲しみと心の傷を受けたが、私の感情の一部は緊張しはじめた。なにかが死んだ。なにかがいまも泣いている。
ソンタグ,1979,27)

彼女は間違いなくここから知り始めたのだと思う。つまり、無力感はひとの歩みを不可能にするばかりではない。絶望は終わりではない。知ることは、常にそこから開始されるべきなのだ。なぜならそれは無際限な営みなのだから。

知ろうとする者にとって、とりわけいかにしてかを知ろうとする者にとって、知は奇跡も猶予も与えてはくれない。それは終わりなき知である。出来事への際限なきアプローチであって曇りなき確信とともに出来事を掌握することではない。「イエス」または「ノー」、「すべてを知っている」または「否定する」、啓示またはヴェールなどのようなものではないのだ。
ユベルマン,2006,111)


私はサルガドの作品について語り始めようと思う。十分とはいえないまでも、彼の作品を肯定するための用意は整ったと思われるから。


4.引き裂き・起源・希望


私がサルガドの作品群を前に体験したのは「引き裂き」だと書いた。それは写真イメージの持つ特質によって引き起こされたものだ。だがその力は、サルガド作品においては他に類を見ない、圧倒的なものとして示されている。
なぜ、サルガドのもたらす「引き裂き」は強力なのか。それは彼の作品がいくつもの二重性を含んでいるからだろう。そしてその二重性は、写真イメージが本来的に持つそれを倍加するのだ。
作品のおそらく誰も見過ごすことのない特徴に、画面に付与された「聖性」がある。聖性はそれ自体で私を引き裂く。聖なるものとは、触れることのできないものなのだから。同時に聖性は「ヴェール」として作用する。光の描写は天空を指し示し、その照明は祝福を感じさせる。飢餓、病、失明、嘆き、彷徨のイメージは苦難の物語を呼び起こす。神によって選ばれしものたちのスティグマ。しかし、これは絵画ではない。写真の指示対象は現実に存在する。サルガドの作品は、この実在性も同時に私に叩きつける。光と影、白と黒の鋭いコントラストは、対象を私自身の身体よりも強く現前させる。そして私は感覚する。悲惨を被っているのは「この」身体なのだ、と。そのとき二つの引き裂きが私を襲う。写真の作品性と対象の実在性。私の身体と彼らの身体。だが、彼らの身体はほとんど彫刻のようでさえある。更なる作品化。実在性は退隠する。しかし私の信憑がそれを追いかける。「彼らは実在する」。すなわち、この信憑は彼らの実在を希求する。それは彼らを知ることへと向かうだろう。
さらにもうひとつ、大きなヴェールが作品を覆う。アフリカ。人類の起源の物語。火山、砂丘、マウンテンゴリラの写真は、人類史を越える、生命の歴史という虚構を創造する。私はそれに圧倒される。しかし、同時にソンタグの指摘が脳裏をよぎる。その壮大な物語の中で、人々は無名化され抽象化されてはいないだろうか?その指摘自体に異論はない。だがしかし、その壮大さを前に人々は無力ではない。確かに、人間の存在など無関係にある自然環境、彼らを人間としてあつかわない政治的な環境に対して彼らは無力なのかもしれない。もちろん、そのことを無視してはならない。それらは私たちのそれと繋がっているのだから。けれどサルガドが描くのは、圧倒的な自然環境を前にそれに対立することなく対峙し、その中でともに生きていくのをやめない者たちの姿である。彼らはショーレムの詠う天使のように生きはしないのだ*7。翼のないことは不幸ではない。彼らは私にそう告げる。写真イメージを超えて実在を主張する彼らの身体が。それはサルガドが描く物語にも拮抗する。すなわち物語の裂け目となる。
巨大な角を含めれば、成人男性の背丈をゆうに越える牛たちの群れ。熱から発する湯気なのか、火が焚かれているのか、それとも霧なのか、白い靄が画面を覆う。その光景は私たちの知る「歴史」に包摂されない時間が、生があることを告げる。サルガドの描き出した「起源」の物語は歴史を作り上げることがないだろう。そこは常に起源であり続けるからだ。だがこの起源は私たちの歴史に再考を迫るだろう。とりわけそこに含まれる進歩の観念に対して。ベンヤミンが言ったように「歴史のなかで人類が進歩するという観念は、歴史が均質で空虚な時間をたどって連続的に進行するという観念と、切り離すことができない」(ベンヤミン,1995,658-659)からであり、起源は常に異質な「現在時」たりうるからだ。この均質な時間に裂け目を入れる「現在時」という性質は瞬間でしかありえない写真の特性でもあるのではないか。「歴史」という全体、「すべて」に抗する現在としての起源、すなわち始まりのとき。私がサルガドから受け取ったのは希望だ。「すべてに抗して」始めることが可能だということ。希望とはその始まりの可能性のことではないだろうか。



この文章は展覧会に同行してくれた友人の存在に動機づけられている。大げさな気もするがここに記して感謝したい。



参考文献

ウルフ,V 出淵敬子訳 『三ギニー 戦争と女性』 みすず書房 2006年
サルガード,S 今福龍太訳 『人間の大地 労働』 岩波書店 1994年
ショーレム,G編 山本尤訳 『ベンヤミンショーレム往復書簡』 法政大学出版局 1990年
スミス,W-E スミス,A-M 中尾ハジメ訳 『水俣』 三一書房 1982年
ソンタグ,S 近藤耕人 『写真論』 晶文社 1979年
        北条文緒訳 『他者の苦痛へのまなざし』 みすず書房 2003年
ティスロン,S 青山勝訳 『明るい部屋の謎』 人文書院 2001年
ディディ=ユベルマン,G 橋本一径訳 『イメージ、それでもなお』 平凡社 2006年
デューブ,T他 清宮真理訳 『ジェフ・ウォール』 ファイドン・プレス 2006年
ナンシー,J-L  西山達也・大道寺玲央訳 『イメージの奥底で』 以文社 2006年
ハイデッガー,M 関口浩訳 『芸術作品の根源』 平凡社 2008年
バルト,R 花輪光訳 『明るい部屋』 みすず書房 1985年
フリードリッヒ,E編 坪井主税・ダンジェン,P訳編 『戦争に反対する戦争』 龍渓書舎 1988年
フルッサー,V  深川雅文訳 『写真の哲学のために』 勁草書房 1999年
ベンヤミン,W 浅井健二郎編訳 久保哲司訳 『ベンヤミン・コレクション?』 筑摩書房 1995年
ボードリヤール,J 梅宮典子訳 『消滅の技法』 PARCO出版 1997年
Salgado,S ( introduction par Caujolle,C) 『Photo poche;55』 Centre national de la photographie 1997  
荒金直人 『写真の存在論』 慶應義塾大学出版会 2009年
飯沢耕太郎 『同時代写真』 未来社 1999年
伊藤俊治 『20世紀写真史』 筑摩書房 1988年
梅津禎三他編 『「セバスチャン・サルガド アフリカ」展図録』 朝日新聞社 2009年
岡真理 『アラブ、祈りとしての文学』 みすず書房 2008年
近藤耕人 管啓次郎編 『写真との対話』 国書刊行会 2005年
多木浩二 『写真の誘惑』 岩波書店 1990年
西井一夫 「世界に関与すること」 『現代の眼 458』 近代美術協会 1993年
深川雅文 「サルガド―写真の大地性」 『現代の眼 458』 近代美術協会 1993年

*1:『写真との対話』、20ページ、畠山直哉へのインタビューから。彼の指摘は非常に的確。サルガド作品の二側面をしっかり理解していると思う。……『セバスチャン・サルガードですか?先日の東急文化村での展覧会には僕は行きませんでしたが、彼は写真のある流れの先端にいるのかもしれません。彼の写真を前にシニカルになることはできない、そういう圧倒的な感覚があります。「報道写真が果たして世界を変えられるのだろうか」などという言い方を封殺してしまう凄みがある。サルガードに比べると、僕の尊敬するカルティエブレッソンの写真が趣味性の高いものに見えてしまうことさえあります。アイロニーといった距離や迂回がない、直球勝負の人でしょう。画面の造形的な感覚は、写真史や絵画史をすべて消化しているといった古典的なものですし、あまりに画面の完成度が高いのでそういうものを好まない人からとやかくいわれることがありますが、あんなに活動的で知的で冷静な写真家が存在すること自体がぼくらにとって恩寵ではありませんか。ただ、とられた人間がみなロダンの彫刻みたいに見えることはありますけど。世界を「よきもの」に変えられたら、という希望が写真にはこめられていると思うんだけど、同時に何か素晴らしい手つきで整理している。そういう、なんか酷な感じもある。整理して、ものすごく大きなメモリアルを作っているような。でもそのうち、ああいう作品がドクメンタなんかに出てきたりするようになるのかもしれませんね。シニカルな美術の世界からは毛嫌いされていたようなものが、現代美術として成立してくる可能性がありそうな気がする。もちろん「キッチュ」を超えたものとして真面目にあつかわれる、という意味ですよ。』……102から103ページ、港千尋もインタビューでサルガドに触れている。「好きだ」といっているだけだが僕にとっては大きな発見だった。

*2:ソンタグが言及しているウォールの作品は『ジェフ・ウォール』(ファイドン・プレス,2006年)の38-39ページの見開きにて確認できる。

*3:撮影対象をその無名化あるいは有名化に抗い、その固有名性において捉えつづけるフォト・ジャーナリストに長倉洋海がいる。そのことは彼の写真集タイトルを並べるだけで明らかだ。『ザビット一家、家を建てる』、『へスースとフランシスコ―エル・サルバドル内戦を生きぬいて』、『マスード―愛しの大地アフガン』。コソヴォ、エル・サルバドル、アフガニスタン。彼は世界各地で長期取材を行い、「戦地」としてしか表象されない場所に生きる人々を写してきた。とりわけマスードにたいしては1983年から、マスードがジャーナリストを装ったものたちによる自爆テロで死去する前年、2000年までの17年間にわたって取材を続けた。彼については『獅子よ瞑れ―アフガン1980−2002』(河出書房新社、2002年)に最も詳しい記述がある。写真、エピソードともに十分にマスードの魅力を伝える好著である。

*4:ジャック=アラン・ミレール編 ジャック・ラカン 小出浩之訳『フロイト理論と精神分析技法における自我(上)』(岩波書店,1998年)の273ページ

*5:おそらく「世界」の語にはハイデッガーからの反響を聞き取るべきだろう。だが私の使用した「世界」の語には「われわれ」という自明の共同性は含意していない。むしろ逆である。……『世界とは眼前にある数えられる、あるいは数えられない、既知の、あるいは未知の事物を単に寄せ集めたものではない。しかしまた、世界は単に想像されたすなわち眼前のものの総計に付け加えて思い描かれた枠なのではない。世界は世界となるのであり、そしてそれは、われわれが精通していると思っている把握可能なものと受容可能なものよりも一層存在的にある。(ハイデッガー,2008,65)』……世界と大地、開けと閉じ、不伏蔵と伏蔵などの区別を用いながらハイデッガーの言わんとすることはなんなのか。正直ほとんど分らないのだが、歴史あるいは民族なる語が絡んでくると危険を感じてしまう。にもかかわらずハイデッガーの書には理解すべきなにかがあることは否めない。

*6:ナンシー自身の見解はむしろ逆なのかもしれない。彼は次のように述べているからだ。……『判明なるものが不可視なのは(聖なるものは常に不可視であった)、それが諸対象とその知覚および使用の領域に属さず、諸力とその触発および伝達の領域に属するからである。イメージは不可視なものの明証性である。それは不可視なものを対象として可視化するのではなく、それを知ることへと到達するのである。明証性の知は学問知ではなく、あるひとつの全体を全体として知ることである。一撃にして(その一撃とはイメージの一撃なのだが)イメージはある意味の全体を、あるいは(こう言ってよければ)ある真理を明らかにする。 (ナンシー,2006,31−32)』……しかし、ここで言われている知が「明証性の知」であることを考慮しなければなるまい。極めて形而上学的な次元での「もの」の把握。続けて彼は「意味は無限だ」とも述べている。また同書の別の論文では、レヴィナスの全体性と無限の区別に対応する「言われたこと」と「言うこと」の区別を肯定的に採用してもいる。しかし、いまだ私にナンシーの思想を解釈しうる力はないようだ

*7:……『私の翼ははばたく用意ができている。/帰れるものなら喜んで帰りたい。/たとえ一生ここに居続けても、/私に幸福はないだろうから。』……『天使の挨拶』(抜粋)ベンヤミン「歴史の概念について」9章のエピグラフにある。訳に違いはあるが、全文は『ベンヤミンショーレム往復書簡』の125から126ページで読める。ショーレムが1933年9月19日付でベンヤミンに送った手紙に付されたものである。

脱臼した時間としての写真―古屋誠一小論

Aus den Fugen

Aus den Fugen

『Seiichi Furuya Mémoires 1995』


Tokyo 1992
頭上を覆い尽くす満開を通り過ぎた桜は花びらをその肌に滴らせ、細い枝の付け根近くに黒い鳥を留まらせている。


Vienna 1984
鳥たちは自らの羽ばたきによってその輪郭をぼやかしている。暗い灰色の背景に無数の黒。


Tateshina 1978
冷たく透き通って眼前を流れる川の水面は波立ち、対岸は白い河原で横たわる流木もまた白く、寒さに褪せた緑と裸木の林が奥へと広がり、さらに上方を見遣れば斜面のくぼみに雪をたたえ頂も白く霞む山々。


Izu 1978 (Christine Gössler)
てらてらと、糊のように陽光を照り返す海を背に、彼女は立っている。
髪はぴったりと頭に撫で付けられて、あらわになった大きな額の下には、はにかんだような、しかし満面の笑顔。
首からは銀塩フィルムの機械式カメラが下がり、ちょうどへそのあたりに収まっている。
黒いTシャツは角張った肩のラインと、対照的な胸のふくらみをはっきりと伝える。
灰色に近い水色のロングスカート、黒いタイツ、黒いゴム長靴。
直角に曲げられた右肘の先には竹の棒が握られて、斜めにコンクリートの岸に突き立てられている。


私は気付いていたのだろうか。この一枚の写真に、あるいはそこにうつる彼女の姿に魅了されたあの時から。白い首筋と右手首にひとつずつ、赤い傷跡が刻まれていることに。『明るい部屋』のロラン・バルトなら、「ストゥディウム」と呼んで見向きもしないであろうそれに。私は最初から惹かれていたのだろうか?無意識のうちに?

東京、Vienna、蓼科、伊豆、East Berlin、Bologna、Wurzenpass、Graz、Schattendorf、Hohenau、Gmünd、Rattersdorf、鶴見、Sachsenhausen、Leibnitz、Kapfenberg、Venice、Rostok、Spielfeld、Dresden。

ページを繰るたびに、私は写真の脇に記された様々な地名に出会う。しかし、西欧の歴史について、地理について、わずかな知識しか持ち合わせない私に、それらの大半はイメージをもたらさない。ドイツ語に関しても同様であるゆえ、音としてさえあいまいな響きを残すのみだ。
そのような、私にとっては疎遠な文字列と隣り合わせに 19xx と西暦を表す四つの数字が刻まれている。私はすでに知っている。ある年を境に数字の持つ意味が決定的に変わってしまうということを。それはしかし 1989 ではない。いくつもの窪みを穿たれた分厚い壁は、傾いた日差しに色付けられる集合住宅は、大人一人分ほどの大きさがある肖像写真を掲げたポールの林立は、彼の作品においては終ってしまった後の光景にすぎない。1985 彼女が永遠に世界から去ってしまった後の。
1985 以前、私はそこにしるしを読みとるだろう。やがて迎えることになる彼女の自殺という事実に収斂していくしるしを。およそ無関係な意図のもとに撮られた写真、例えば彼の state border の連作の一部にも。
1985 以後、私は空虚さを感じるだろう。彼女の死と関わりなく歴史はその物語を先へ先へと進め、息子の光明は鼻筋に彼女の面影を残しながら成長していく。しかし、それらは彼女の不在から逃れることが出来ない。


私は想像する。自室で幼い息子の世話をしながらTVニュースを眺めていて、ふと、昼食の準備をしていたはずの彼女が姿を消していることに気がついたときのこと、不安に駆られて部屋をとびだし、マンションの階段を息を切らして駆け上がりながら耳にした鈍い音のこと、最上階で見つけた彼女の靴、そして息子に対して、警察に対して、私が殺した、私が殺した、とつぶやき続ける彼のことを。


私は想像する。膨大な写真、膨大な彼女のポートレイトをひとつひとつ、手に取っては眺め、物思いに耽る彼の姿を。暗室の赤いライトに照らされて、彼女が現像液の中から浮かび上がる一瞬を。



彼は、彼女が精神病院から一時退院し、向かった旅先Veniceでの写真集『Last Trip to Venice 1985』(以下『Venice』)に付されたエッセイの末尾にこう書き付けている。
「はたして、そこに焙りだされた写真家とは、妻を死に追いやるために撮り続けた男なのだろうか」
だが、彼の懸念とは裏腹に、写真は写真家の物語に還元されることに抵抗する。確かに、彼女との出会いから別れまでを時系列に並べた『Christine Furuya Gössler Mémoires, 1978-1985』(以下『Christine』)は当然のことながら、『 Venice』、新しく撮られた写真と前2作と同じ写真を混交し並べ替えた『Seiichi Furuya Mémoires 1995』(以下『Mémoires 1995』)、『Aus den Fugen』の全てにおいて彼女の死のしるしは刻まれている。しかし、同時に、『Christine』ではそれぞれの写真が撮られた当時の状況を記したキャプションが付されているのだが、そのうちの決して少なくない数の写真について、彼は記憶にない、と書いており、その記述は写真が記憶とは異なったもの、記憶の外からやって来るものであることを教えてくれる。また、『Venice』冒頭におかれた数枚の写真は、旅行中のベニスと旅行後のベルリンの光景が二重写しになっている。彼によればこれは全くの誤りで二重露光してしまったものなのだが、重ね合わされて一体となった景色は、もはや想起すら自分の意図通りに行かなくなったような感覚を抱かせる。


映画は度々、その誕生が精神分析と重なる時期であったため、それ自体無意識を映すものとして言及されるが、写真にもまたそのような性質を見出すことは可能だろう。しかし、映画がスクリーンに投影された光線の反映を認識した結果であり、フィルムとフィルムの空隙は私たちが常に補填していることを考えれば、つまり、映画の認識による被構成性を考えれば、写真はむしろ物としての過剰さを持つものと捉えるべきではないか。


視覚は潜在的に触覚を含んでいる。眼に映る対象の位置する所まで身体を移動させるならば、それに触れることが出来るという可能性として。映画と写真はその触知可能性から切り離された可視性としてある。しかし映画の場合、音声が触覚に近似的なものとして作用し、時間がその絶対的遠さに逃げ去りという根拠を与える。さらにスクリーンは光によってその物質性を否定され、それゆえ私たちは映画館の暗闇の中でその表層に自らの身体を溶解させ、視覚対象の絶対的遠さを絶対的近さへと反転させることさえ可能なのだ。
しかし写真は音声をともなうことはほぼない。なぜならそこでは時間が流れないために両者は関係を結ぶことが出来ないからだ。そう、写真はいつまでもそこに留まり続けるためにその遠さは絶対的なままなのだ。そして私たちはその絶対的遠さと、イメージとしての近さとの間で引き裂かれることになるだろう。勿論、写真においてもシャッター速度を下げ、レンズを開放し、露出をオーバー気味にすることによってその表層を溶解させていくことは出来る。だが、それは写真自身の基底材としての物質からの逃避にすぎない。


写真の物性、記憶に対する、感覚に対する外部性は、それ自体としては表象不可能なものだ。ゆえに、それは表象とともにしか到来しない。
写真と記憶は決定的に異なっている。私たちが記憶し想起するのはイメージであり、写真はイメージである以上に物なのだ。
それゆえ、個々の写真を前にするとき、私は彼を想像することがない。写真から視線を外し、それらを全体として眺める視座を仮構したとき初めて、それは生じることになるのだ。彼の作品が私的記憶の共有を迫るナルシシズムの表現などとは完全に距離をおくのは、写真と自らの記憶との差異を一つの絶望とともに受け入れているからだろう。つまり、彼女を永遠に所有することの断念とともに。


また、『Mémoires 1995』、『Aus den Fugen』における写真の中の彼女の容貌は、それら全てが同一の彼女だと認めることがひどく困難なほどに異なっている。あるものは少女の如き幼さで、あるものは彼女の母と見紛うほどの老いた姿で私を見つめる。その眼差しは、ときに私以外見えぬかのようであり、ときに人ならぬカメラを眺めるような冷たさで私を射抜く。仮に時系列に並べ直したとしても、そこに連続性は見出せまい。その差異は、わずか二日間の記録である『Venice』においても現れているのだから。
写真の物語への、自らに刻まれたものとして感得されるしるしへの抵抗は、彼女の生が他でもあり得たことを示す、という形をとることはない。それらはどのような未来も拒否するという形でこそ現れる。つまりそこではその一瞬が全てであり、それはどのような全体の一部にもならないのだ。


『Aus den Fugen』というタイトルは継ぎ目がばらばらになることを意味しているのだろう。イメージとしてはしるしをそこに留めながら、物としてはその連続から外れてある写真。意味する所はズレるだろうが、小原真史のように「脱臼」の比喩を当てはめるならば、記憶の中で意味として機能するために収まるべき位置から=関節からはずれ、宙ぶらりんに機能しなくなった時間の突端としてそれはある。
死んでいった愛する者の記録を前にしてとるべき態度について、彼は約20年の歳月をかけて一つの結論を見いだしたのではないだろうか。彼女を自らの、記憶という物語の中に閉じ込めることなく、つまり記憶の中に他者としての彼女を失うのではなく、写真の持つ外部性を通じて、彼女と新たに出会い続けること。小原が序文でデリダを引いて述べているように、私たちは死者を2度失ってはならない。その喪失に、より能動性を、より責任を強調すべく換言するならば、私たちは「死者を2度殺してはならない」のだ。このことを敷衍してみれば、他者を物語の中に閉じ込めることはすでに、一度目の殺害を遂行しているということにならないか。勿論、他者は常にそのような殺害を逃れて写真の如く外部に実在しているのだが。しかし、これが社会という「私たち」によってなされるとしたらどうだろうか。「私たち」にとっての他者を「私たち」の物語に内化すること。物語はおそらく、私的記憶を除けば常に「私たち」のものだろう。言葉は全て「私たち」を根拠に成り立っているのだから。それはどこまでが「私たち」なのかを不断に確認するために存在するのだ。私的記憶はそれに対して、どこまでが「私」なのかを保証するものだろう。だがこのときの私性は、それ自体物語であるが故に公的なものを前提としている。


もし、あらゆる争いが「私たち」の形成に関わっているのだとしたら、現実の殺害が、物語への内化という抽象的な殺害と密接な関係を持っているのだとしたら。為さねばならないのはそのような「私たち」を疑問に付すことであり、その方法はそこに別の「私たち」を対置することではあり得ない。求められるのは、「私たち」と複数形に還元されることのない別の「私」なのだ。


その点バルトは正しかった。公的なもの=「ストゥディウム」を拒否し私的なもの=「プンクトゥム」を対置した所までは。しかし、彼の場合、私性の根拠もまたしるしなのだ。「プンクトゥム」の共有出来なさを痛感させる限りにおいて、バルトはその私性を提示するが、それはバルトという固有名の魅力に大きく依存している。その固有名は、「私たちのバルト」という一つの物語を結実しないだろうか。確かに彼が試みた断章形式は物語化への拒否として受け取ることが出来よう。しかし、いまや、そのような試みも含めてバルトという物語が形成されてはいないだろうか。そうだとしても、もちろんそれは、バルト自身に帰せられる問題ではないのだが。


古屋が一連の作品によって示したのは、最も公的に「私的」なもの、私的記憶を通して現出する、そこに還元されない「私ならざるもの」としての他者=Christineであり、写真の決して物語化されえない「物」としての側面であるはずだ。このような何ものにも還元されない全き外部性こそ「別の私」の本質ではないのか。


もしかすると、ブランショカフカを論じながら芸術の定義に「孤独」を用いるとき、このような含意がなされているのかもしれない、というのは根拠のない思いつきにすぎないが、少なくとも古屋誠一の作品群は一つの孤独を引き受け続けた成果なのだと言うことは出来るだろう。


参照した古屋誠一の作品(全て東京都写真美術館にて閲覧可能)

『AMS』
『Seiichi Furuya Mémoires 1995』 Distributed Art Pub Inc (Dap) (1995)
『Christine Furuya Gössler Mémoires, 1978-1985』 光琳社出版 (1997)
『Last Trip to Venice 1985』
『Alive』 Scalo Publishers (2004)
『Aus den Fugen』 赤々舎 (2007)

『来るべき共同体のために』

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

無為の共同体―哲学を問い直す分有の思考

はじめに

われわれの生はかけがえのないものであり、あまねく命は尊いものである。それはわれわれにとってひとつの真理として流通している考えである。人類史上最悪とされる、人間が人間に対して行った行為、アウシュヴィッツにおけるユダヤ人虐殺は、その「真理」を徹底的に損なうものであるがゆえに否定されるのだ。
「かけがえのなさ」が真理であるとすれば、それは普遍的かつ一般的に適用可能な価値であるはずである。しかし、それはその語が意味するものと完全に矛盾しないだろうか。誰もが等しくかけがえないのであれば、それはもはや「かえがきく」のではないか。
おそらく、われわれはその矛盾の超克のために常にそれと意識されないような仕方で例外を生み出してきた。同時に「かけがえのなさ」の普遍化に伴い、つまりもはや例外を新たに作り出しにくくなるがゆえに、例外者は可視化されるようになってきた。そこで、理性を絶対善とした、その普遍化の運動としての来るべき人類史の構想は、普遍化が同時に要請する例外者を考慮したうえで、もう一度問い直される必要が生じた。
そのような問いを正面から引き受けた哲学者のうちの一人に、ジャン=リュック・ナンシーと、ジョルジョ・アガンベンがいる。前者は生の「かけがえのなさ」を「かけがえのない」ままに、普遍性と両立させるものとして「共同体」を再考する。後者は、「かけがえのなさ」の根拠としての「人権」概念を批判し、それとは別の仕方で「かけがえのなさ」を成立させようとしている。彼らの試みは果たして成功しているのだろうか。それぞれ簡単にではあるが、みていこう。 


1.ナンシー『無為の共同体
ナンシーはその著書において、共同体はこれまで思考されてこなかった、と述べる。共同体の名で指され、思考の対象とされてきたものは、キリスト教的な合一・融合を前提とするものであり、われわれの生・死を作品化した上で、タイトルとして「かけがえのなさ」のラベルを貼り付けるものであったのだ。つまり、そのような「共同体」においては、その内部の存在は「かけがえのなさ」を保証されるが、外部の存在はそうではないのだ。また、共同体によって保証されたそれは、共同体の危機においてはその維持のため「作品化」され、その結末を強要されてしまう。それに対し、ナンシーが思考の対象ではなく、そうなるべきものですらない、と述べながら、言葉を費やす「共同体」は、本質的に「無為の共同体」である。その成立は「他者の死」とコミュニケーションを根拠としている。両者は生・死の作品化を拒否する「分有」という事態を顕在化させる。
分有とは、私有とも共有とも異なる。その対象は、一個の全体として捉えることのできぬものなのだ。例えば、ナンシーは次のように述べている。

私はこの他人の死――その限界はそれでも私を見返りなしに露呈するが――のなかでおのれを認識するのではないからだ。
とはいえ、ハイデガーはこの点では最も先まで進んでいる。

われわれは本来的な意味で他者の死を体験しはしない。いつもせいぜいのところ「立ち会って」いるだけである。〔…〕死は、それが「存在する」限りでは本質的につねに私のものなのである。

鏡仕掛けの装置(他者のうちに自己を再認〔承認〕するという装置、それは自己における他者の再認を、したがって主体の審級を前提している)は少なくともここで――あえて言うなら――一変させられている。つまり私は、他人の死のうちに再認しうるものはなにもない、ということを再認しているのだ。このようにしてはじめて分有――そして有限性が刻まれるのである。
(ナンシー,2001,60)


他者の死は私が決して私有できぬもの、共有できぬものとしてある。通常われわれは「他者のうちに自己を再認する」と考えるが、その自己は死によって永遠に把捉不能なものとなる。他者の死は究極的な事例だが、コミュニケーションにおいてもそれは同様である。コミュニケーションはシャノンが図式化したような一般的理解、発信者・メディア・受信者の三項関係によって成り立っているのではない。コミュニケーションにおいて私は露呈、外-立=実存する。そして私は他者に分有され、私はそれを読み取るのである。言い換えれば、コミュニケーションなしにわれわれは実存しない。すなわちわれわれはつねに共(に)出現するのだ。そしてこの事態においてのみ特異性もまた実存する。私の特異性は、私にとって他なるものとしてあるのである。


2.アガンベン『人権の彼方に』

 アガンベンはナンシーに反して、「かけがえのなさ」を、(少なくとも)直接的には追求しない。むしろ、それは例外を作り出すひとつの共同体=国家の生命、権力の源泉となるのみである、とされる。生の「かけがえのなさ」は、ある種の一般性である「形式」から切り離された「剥き出しの生」として現れる。だが、このような生が保護されるのは国家に従属する限りである。「剥き出しの生」がそれだけで共存することはできない。なぜならそれではホッブズ的闘争状態に陥ってしまうからだ。そこで、「剥き出しの生」の保証は、自然権の委託と引き換えである、人権によってなされることになる。
 人権はつねに例外を生じさせる。それは国民・市民でないもののすべて、たとえば、難民と呼ばれるものたちである。だが、難民=例外状態は、通常の意味において例外ではない。つまり、全国民・全市民は潜在的に難民なのである。なぜなら、国家はその危機、戦争状態を前提としており(軍事力の保持)、そこでその潜在性は一挙に顕在化するからだ。
 このような人権概念をアガンベンは批判する。そして、形式と剥き出しの生が分離不可能であるような〈生の形式〉の重要性を論ずるのだ。〈生の形式〉とはどのようなものか。アガンベンは次のように述べる。

この生においては、生きることのあらゆる様態、あらゆる行為あらゆる過程が、決してたんに事実なのではなく、何よりもまず常に生の可能性であり、何よりもまず常に潜勢力なのである。(…)それは、生きることそのものを常に作動させている。だから、人間――
潜勢力を持つ存在としての、つまり制作することも制作しないこともでき、成功することも失敗することも、自分を見失うことも見出すこともできる存在――は(…)生が幸福へと割り振られている唯一の存在なのである。
アガンベン,2000,12)

〈生の形式〉の構成は、思考によってなされる。思考とは潜勢力の経験である。アガンベンアリストテレスを引いている。

思考とは、その本性が潜勢力にあるような存在である。〔…〕思考が現勢力へと生成するとき、可知的なもののそれぞれは〔…〕やはりある仕方で潜勢力にとどまり、その時、可知的なものは自分自身を思考することができる。(アガンベン,2000,19)


潜勢力は「数多性」をもたらす。そしてこの〈生の形式〉として統一された「数多性」こそが、例外を生じさせない政治の主導概念へと生成するのである。


3.価値の消去『無能な者たちの共同体』

 ナンシーとアガンベンが述べていることは、表層的には相反しているようにも受け取ることができるが、共通に論じられていない重要な問題がある。その問題とは「価値」である。われわれが、あるものとあるものを比較し、またあるものを求めて闘争するのも、あるものが持つ価値ゆえである。
 価値は存在しない。しかし、それはわれわれの現実を深く規定している。それゆえ、共同体のあり方もまた、価値とは無関係ではありえないはずである。田崎英明は『無能な者たちの共同体』の中で次のように述べる。

問題は、新自由主義的で軍事的なグローバル資本主義が、いたるところで近代的な主体を消去している(物理的抹殺を含めた何重もの意味で)一方で、「価値」は消去されずに、ますます人々の行動の原因としての力を強めつつあるように思えることなのだ。そもそもマルクス主義的な革命の使命、より正確に言うなら、革命後の過渡期社会としての社会主義的社会の使命とは、資本主義的な物神性としての「価値」の消去を実現していくことであったはずだ。(…)ところが、現実に存在した社会主義は崩壊するか国家資本主義へと移行してしまった。革命、すなわち、「価値」の消去をあきらめた人々は、せめて「価値」のより平等な分配を求めて「主体」言説を何とか復興しリサイクルしようとする。
(田崎,2007,230−231)


近代的主体の消去は、「すでに起きたこと」よりも「起きそうなこと」の優先性に要請される。身体の水準で言えば、DNAの解析がそれにあたる。そこではもはや、「問題は『誰が何をしたのか』という形では立てられない」のだ。ナンシーとアガンベンはともに、近代的主体の概念の乗り越えを試み、その先で語っているようだ。それでは、田崎の二分法を用いるなら、彼らはそこで「価値の消去」を志向しているのだろうか、それとも「平等な分配」なのか。どちらかを選択するならばやはり、前者であろう。しかし、彼らが称揚する特異性や数多性の実現は、価値を消去できるのだろうか。そうでなければ、価値をめぐる争いは止むことなく、DNAにまで細分化・抽象化されたわれわれの生は、ますます権力への従属性を高めていくだろう。
田崎は、「政治とは無能な者たちの共同体ではないだろうか」と述べる。無能な者たちは欠如によって無能なのではない。完全であるがゆえになにものの手段にもなり得ないのだ。それは、「非感覚的なものの持つ永遠性でもなく、しかし、流れ去る瞬間ではないような『いま』」に生きるものたちである。非価値的なものへの志向、それをナンシーとアガンベンがともに抱いていることは疑い得ない。その実現のために、われわれはナンシーやアガンベンよりも「さらに先に進むよりほかはない」。

参考文献

アガンベン,G 高桑和巳訳『人権の彼方に』 2000年 以文社
田崎英明 『無能な者たちの共同体』 2007年 未来社
ナンシー,J=L 西谷修訳『無為の共同体』 2001年 以文社

単独性の外部へ―ロベルト・ムージル「愛の完成」―

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)

部屋の中には夫と妻の二人。窓は濃い緑色の目隠しに覆われ、夕暮れの室外からは完全に切り離された空間として、その部屋はある。二人は愛し合っている。愛し合っている?なぜそんなことがわかるのか。たとえばその理由が、「そのように書かれているから」だとすれば、われわれはさらに、問いを継ぐことができる。そのように書くことを可能にしているものは何か、と。それはいうまでもなく、あらゆる空間を、すなわち個々人の内面をも均質なものとして移動することのできる、超越者の措定である。そこで愛は内面と内面の関係であり、その関係の記述者として超越者が存在するわけだ。しかし、「愛の完成」において、愛は内面の関係ではない。それはまず、空間そのものとして描かれる。

夫を眺めやる視線は、夫とひとつの角度を、硬いぎごちない角度をなした。
確かに、それは誰の目にも見えるようなひとつの角度だった。しかしそれとは違った、ほとんど質感にひとしいものを、その中に感じ取れるのは、この二人だけだった。彼らにはこの角度がきわめて硬い金属でできたすじかいのように緊張して、二人をそれぞれの椅子に抑えつけ、それでいて、互いに遠く隔たっているにもかかわらず、ほとんど身体に訴える一体感へと結びつけるように思われた。(ムージル,1987,8)

 妻が注ぐ紅茶の湯気はトパーズのように静止し、壁に映る光は黄金色のレースへと凝固する。時間は糸のように二人の胸を貫き、静止し、硬化する。そして、空間は結晶化し、結晶は鏡となって空間を無限化する。ここには内側も外側も存在しない。言うならば、すべては内側であり、同時に外側でもあるのだ。確かにこのような記述を可能にしているのもまた、超越的な水準であろう。しかし、内と外の無差異化は、超越と内在の差異も無化してしまうのである。このような差異の無化、すなわち「合一」が愛として描かれている。だが、このような関係を成立させる二者それぞれが、それぞれであることが必然的でなければ、またそのように感じられなければ、そこで成立している愛の価値自体が相対化され、愛など必要なものではなくなってしまう。それゆえに妻は、その愛=合一の関係に付随してしまう偶然性の克服を願っている。
 その妻は、夫から離れて旅に出ることになる。娘が生活している寄宿舎に訪れるためで、夫は仕事のために同行することができなかったのだ。そこで彼女に名が与えられる。彼女、クラウディネはいまやひとつの主観、内面を持つ主体として外界と接せねばならぬはずだ。命名はそのような事態を象徴している。しかし彼女は、自己と世界との、自己と他者との関係を安定したものとして成立させることができない。なぜなら、彼女にとって世界とは夫との関係そのものであり、その世界においてのみ、彼女は自身であることができるからだ。それゆえ、彼女の外界との関係は、通常の自己=内と外界という構図をとらず、自己と夫の関係=世界と外界という構図になり、外界において現象する彼女の身振り、発せられる言葉は自身から剥離していく。そうでなければ、「世界」を保持することができないからだ。つまり、外界における彼女を自己として認めてしまうことは、彼女は夫なしで存在する自己を認めることになり、夫との関係は偶然的なものとなってしまうからだ。
 この剥離の連鎖の中で、彼女は一人の男に誘惑される。そして男に身を投げ出すことになる。なぜなら、それこそ彼女にとって夫との「究極の結婚」だからだ。《あたしたちは、お互いを知りあうその前からお互いに不実だった》という思いは、《私たちは、お互いを知りあうその前から、お互いを愛し合っていた》という思いと、彼女にとってはかわりがない。(ムージル,1987,51)実際に姦淫へといたる小説の最後は次のようにつづられる。

そのとき、彼女は自分の肉体があらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくるのを、身ぶるいとともに感じた。しかし同時に、彼女はいつか春の日にかんじたことを思い出した心地がした。こうしてすべての人間たちのためにあって、それでいて、ひたすら一人のためのようにあることもできるのだと。そしてはるか遠くに、子供たちが神のことを思って、神様は大きいんだと言うように、彼女は自分の愛の姿を思い浮かべた。(ムージル,1987,97)

愛の関係は、神との関係と同一視される。しかし、この神はキリスト教のそれではない。なぜなら、ここでは服従が主体性へと反転し得ないからだ。そして、キリスト教の神は一般性を持つが、ここにあるのは絶対的・単独的な関係である。柄谷行人は「日本近代文学の起源」の冒頭に、漱石の「文学論」を論じながら、偶然性への問いを提示している。「私はなぜここにいてあそこにはいないのか」(柄谷,1988,17)この問いを発端として、主観という一般性が近代において成立したに過ぎないことを論証していくのだが、発端の問いが直接的に論じられるのは、その後の『探求』においてである。しかし、『探求』においての「単独性」は「この私」と「この犬」が同列になるようなものである。「愛の完成」の最後に示される単独性は、徹底的に「私」のものであり、その「私」は世界=神と完全に「合一」している。そこにはもはや外部がない。すなわち、合一=愛の完成とはコミュニケーションの完成であると同時に、コミュニケーションの終わりでもあるのだ。その外部のなさに、柄谷の議論(教える−学ぶ)では、対応できない。柄谷を批判する論考の末尾に、永井均は次のように述べている。永井の言葉をひとまずの結論として本稿を終えよう。

それゆえ、おそらく、われわれはむしろ交通の不可能性こそを学ばなければならないのだ。それは、この無限ではない、それとは別の無限の存在、というパラドックスを認めることであり、そのもうひとつの無限を、どんな命がけの跳躍も決して達し得ない、別の「精神」としての他者の存在として、承認することである。それはつまり、単独性(固有名)と世界宗教キリスト教−引用者注)の「外部」を求めることなのである。(永井、1991,133−134)


参考文献
柄谷行人 『日本近代文学の起源』 講談社 1988年
     『探求?』 講談社 1992年
永井均 『〈魂〉に対する態度』 頸草書房 1991年
古井由吉 『ムージル 観念のエロス』 岩波書店 1988年
ムージル 古井由吉訳『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』岩波書店,1987年

『In Other Worlds』―「フェミニズム」の可能性―

文化としての他者

文化としての他者

スメルサーの集合行動論で博論を書いた、T先生の演習での発表原稿。

フェミニズムをはじめとするジェンダーについての言説に接するとき、私は何か居心地の悪さを感じてしまいます。男性であること、異性愛者であること、それだけで時に糾弾されているような気がしてしまうし、それならば、と、性差別に反対する声に耳を澄まし、自らも声を上げ運動に参加することは、どうも偽善めいて感じてしまいます。
しかし、この感覚は私に特有のものなのでしょうか。もしかしたら、ジェンダー論じたいに近寄り難さをもたらす何かがあるのではないか、そうだとしたら、その解明は私にとってもジェンダー論にとっても、新たな可能性を開くものとなるのではないか。
この仮説を導きの糸として、ジェンダーとくにフェミニズムについて考えていこうと思います。

ジェンダー論は“当事者”の思想か?
フェミニズムの当事者を女性、ゲイ・レズビアンスタディーズの当事者をゲイ、レズビアン自身だとすれば、それらについて非当事者はどのような意識で語っているのでしょうか。目に付いたところからいくつか引用します。

…本書はいわゆるフェミニズムの本ではない…フェミニズムはあくまでも〈抵抗〉の主体である「女」たち自身の運動であり、「男」がフェミニズムを書くことは定義上不可能なのだと僕は考えている
               加藤秀一 『性現象論―差異とセクシュアリティ社会学―』

…僕は、それまでの女性問題をめぐるさまざまな運動や理論と僕自身の位置について、ちょっと違和感をもち始めていた。いわば「メイル・フェミニスト」としての自分の位置が、ある種の「代行主義」に陥っているのではないか、という気がし始めていたのだ。性差別への批判は、女性の視点から問題にされるばかりではなく、自分自身のかかえこんだ「性」としての「男性性」を問うという視点から考察することができないか…
伊藤公雄 『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学―』

…「われわれはここにいる。われわれはクイアだ。当然と思ってほしい」と声をあげる、クイアによるクイアのための「同性愛と法」科目が、法科大学院のカリキュラムに必要なのだ。私は、そのための舞台を作る役割を担うにすぎない。
土屋恵一郎 『フーコーとクイア理論』〈解説〉私が法科大学院で「同性愛と法」を講義する理由

(「クイア」についての説明)
変態、オカマなどを意味し、非異性愛者を差別的に叙述したり、またそうした人々に対して「揶揄」あるいは「非難」の意味を込めて呼びかけるための、歴史的には英語圏に起源を持つ言葉。レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスセクシュアルトランスジェンダーを総称してLGBTという略語が使われていたのが、八十年代後半に、エイズ問題が深刻化して、社会の偏見への抵抗のために、LGBTと四つに分けられていた人々が、団結して自らをクイアと呼び始めた。


引用した文献の著者たちは、どうもジェンダー論は当事者によってなされるのが望ましいと考えているようです。二番目に引用した伊藤公雄は、自らが当事者たるために、男性学、あるいはメンズ・リブと呼ばれるう運動に参加したようです。
また、日本でもっとも有名なフェミニズムの理論家の一人である、上野千鶴子は、中西正司との共著で『当事者主権』という本をだしています。

そこで著者は、これまで多くの社会的弱者が、「専門家」を標榜する非当事者によって、自己決定権を奪われてきたと述べます。「客観性」の名の元に、「あなたのことはあなた以上に私が知っています。あなたにとって、何が一番いいかを、私が代わって判断してあげましょう」という態度、これをパターナリズム(温情的庇護主義)といいますが、これが当事者たちの権利を奪ってきたというわけです。パターナリズムはパーター(父親)という語源から来ており、、家父長的温情主義とも訳されます。夫が妻に「黙って俺についてこい」とか母親が息子に「あなたは何も考えなくてもいいのよ、お母さんが決めてあげるから」というのもパターナリズムの一種です。
そのような状況に対抗して、当事者が当事者について一番よく知っている、私のことは私が決める、といった「当事者主権」の立場を主張する運動が発展しており、その例としてフェミニズム、患者学、障害学、不登校学などが挙げられています。
当事者が自身について考え、自身について語るということはそれ自体推奨されるべきことだとは思いますが、それが「当事者主権」、「当事者学」というように名づけられ、既定されてしまうと、非当事者の発言はどうなるのか、パターナリズムとして拒否されてしまうのか、と不安になります。
ジェンダー論の非当事者による語りづらさは、その反パターナリズムという特徴にあるようです。しかし、なぜジェンダー論が反パターナリズムとしての当事者学でなければならなかったかについてはまだ考察の余地があります。


ジェンダー論が「当事者学」たる所以
ジェンダー論が「当事者学」たる所以は、ジェンダーという言葉がそもそもどういう意味で何のために導入されたかを考えてみれば明らかです。
ジェンダーとは、「社会的・文化的性別」と訳され、これは「生物学的・解剖学的性別」セックスへの対抗概念として使用されます。性は、作られたものであり、それゆえ変えることができるのだ、という主張をそのうちに含んでいます。
ジェンダー以前、女性の多くは、家父長制の下に従属化・客体化を強いられてきました。言い換えれば、「主体としての女性」のあり方が強要されていた、ということです。そこでは、女性は「母」や「妻」として「主体的に」「従属的」であることが求められました。
それゆえ、女性たちは、何が「主体的」であるかを「主体的」に決定する、という二重の主体性を持たねばなりません。フェミニズムが、運動であると同時にそれについての学でなければならないのはそのためです。そしてこの主体性の根拠がジェンダーという概念であるわけです。

しかし、ジェンダー論は常にひとつの問題に悩まされてきました。それは、性は、どこまで社会的に決定され、また変えることが可能なのか、という問題です。ジェンダーとセックスを分離したところで、ジェンダーが根本のところでセックスに規定されているのだとしたら、性の領域で私たちが主体的であることは不可能になってしまうでしょう。ジェンダーについていくら語ったところで、「それでも私たちは身体を持っているし、女性は子供を産むことができるじゃないか」という反論が生じてしまい、そこから母性という本質が導き出され、派生的に家父長制は肯定されかねないからです。この反論のような考えを本質主義といいます。それゆえ、セックスもまた、ジェンダーとは異なった形で社会的に構築されるものだという考えに、ジェンダー論は行き着きます。そして、性同一性障害者が自らのジェンダーアイデンティティを変えるよりも、金銭や苦痛を伴う身体の改変を選ぶことからもわかるように、セックスよりむしろ、ジェンダーの拘束力のほうが大きいのだ、と思考は逆転します。しかし、そうすると、ジェンダーにおいて男が、異性愛者が標準であり、女性が、クイアが、それとの差異によってのみ規定されるという構造は保持されてしまいます。
この男性優位の構造をひとまず受け入れ、その中でジェンダーは論じられるために、男性が自身以外のジェンダーについて語る言葉は、常にパターナリズムに陥る危険性から逃れられないものと捉えられます。また、逆に男性以外のジェンダーは、沈黙していれば客体化、従属化されてしまう危険性を指摘されます。それゆえ、ジェンダー論においては当事者の語りが要請され、その語りは、その都度、主体性の表明となります。このことから、ジェンダー論は「主体化」の理論であると言えるでしょう。


主体化の理論としてのジェンダー論の問題点
しかし、主体化の理論としてのジェンダー論には、大きく二つの問題があると私は考えます。一つ目は当事者の権威化です。これまで述べてきたように、ジェンダー論において当事者によらない語りは、語り手と語られる対象が主体−客体関係に分離し、その目的と相反してしまいます。その結果、他者の語りが抑制され、その抑制されているという感覚から近寄りがたさが生じ、他者による理解可能性が縮減されてしまいます。
二つ目は、客体としての女性に対する無力です。ジェンダー論は主体化を至上命題としますが、それゆえ客体制は否定的なものとして放置することになります。しかし、誰もが「主体化」したいわけでなく、またできるわけでもありません。二つ例を挙げて説明します。
まず、主体化を望まない女性の例です。
1986年、アメリカで「ベビーM」事件と呼ばれる事件が起こりました。これは、代理母契約に基づいて子供を産んだ女性が、生まれた子供に愛着を持ち、赤ん坊をさらって逃亡したところ、警察の介入によって子供を取り返され、さらに家庭裁判所も彼女の親権を否定した、という事件ですが、貧しい移民で教育も受けていない代理母に対して、フェミニズムは有効な支援をできなかったようです。これは、代理母が、生物学的な本質主義を肯定するような、「母性」を象徴する存在であったことが原因でしょう。自らの生物学適性を相対化できない、つまり、自己の性に対し主体的でない女性は、社会的弱者であっても、ジェンダー理論によっては救済されないことになります。
二つ目は、ヒンドゥ教圏で、寡婦となった女性が亡き夫の火葬の薪の上に身を投げる、サティーと呼ばれる事態です。本来、ヒンドゥ教の教義で「自殺」は許されていません。しかし、このサティー儀礼として例外化されています。このとき、寡婦自身に主体性は認められておらず、その主体性は夫、もしくは聖地としての薪の上に転移されています。つまり、サティーにおいて選択の主体は存在していないのです。しかし、寡婦が薪の上に飛び込まなかった場合、儀礼であることが否定され、主体性が前景化して寡婦は自殺未遂の罪で懲罰を加えられます。この事態に対し、土着のエリートは、儀礼のうちに寡婦の主体性を見て取り、法の改変によって介入したイギリス人は、寡婦を救われるべき客体とみなしました。ここに寡婦の主体化の余地は皆無です。

今挙げた二つの事例について、もはやフェミニズムの、あるいはそれだけの問題ではないと思われるかもしれません。しかし、ガヤトリ・チャクラヴォーティ・スピヴァックはこれらを「フェミニズムの問題として解決する視座を与えてくれます。


フェミニズム」の可能性

スピヴァックはまずジェンダー平等主義、つまり反性差別主義と、フェミニズムを区別します。
前者は、「人間」という類を、男性と女性に二分割した上で生じる、種のカテゴリーを対象とし、その分割に伴う権力関係を問題にするものです。個々人はそれぞれのジェンダーに包摂され、男性に対して女性を劣位に置く社会制度に対する異議申し立てが「女性」のカテゴリーのもとに行われ、またそれぞれのカテゴリーについてのイデオロギーや社会意識が問題にされます。

それに対し後者は、言語によって生じる象徴的な秩序を対象とします。そこにおいて「女性」は記号としてしか存在しません。しかし、それにもかかわらず、その象徴的な秩序は現実の社会構造を根本的なところで規定してしまいます。レヴィ=ストロースの親族構造の分析や、ラカンによって言語の問題とされた精神分析が対象としているものが、記号としての「女性」です。
たとえば、レヴィ=ストロースによれば、近親相姦の禁止は、記号としての女性を貨幣のように流通させるための象徴的な制度です。

スピヴァックは、前者だけでは、記号としての女性は否定的なもののまま放置されてしまうと述べ、それゆえ象徴的な領域についての考察が不可欠なものであるとします。そして彼女は、フェミニズムをまさにそのような学として定義し、そこからさまざまな言葉をつむぎだします。いくつか引用しましょう。

…この二重の見方(性差別主義に反対し、フェミニズムに賛成する・引用者注)は、女性の再生産=生殖の自由を考察する際にも必要とされるだろう。なぜなら、女性の解放を、再生産=生殖の解放と同一視することは、反性差別主義を目的そのものとしてしまうことであり、女性の主体としての地位の確立を疑問の余地のない善としてみることであり、…そしてそれは、女性の客体としての地位が、女性の再生産=生殖機能とはっきり同一視されるような、親族構造を構成する、女性の一般交換としての文化の見方を合法化することでもある。

ここで、スピヴァックジェンダー論だけでは、問題は解決されないということを述べています。その理由は、女性自身の主体化を称揚するあまり、自らの客体性、つまり自身の自身に対する他者性が無視されているということです。すなわち、女性をひとつのものとして名指すことができる、という考え方自体が批判されているのです。また別の箇所では

第三世界の文学の受容について論じながら)
…「副次的」素材に対して「エリート的」方法論をとることへの抵抗は、認識論的/存在論的な混乱を招きやすい。その混乱は、「副次的存在がエリートではない(存在論)のと同じように、歴史家はエリート的方法によって知ってはならない(認識論)」という承認されぬ類比関係の中で生じる。
 しかしこれは、さらに大きな混乱の一部に過ぎない。男性がフェミニズムを理論化できるか、白人が人種差別主義を理論化することができるか、ブルジョワが革命を理論化することができるかといった事柄にまつわる混乱である。その状況が政治的に耐えがたいものとなるのは、前者のグループだけが理論化するときなのだ。

と、フェミニズムを含む理論の当事者主義が批判されています。そして一ページほど後には次のように述べています。

…副次的なものだけが副次的なものを知ることができ、女性だけが女性を知ることができるなどという立場は、理論的前提としても成り立たない。なぜなら、それは、自己同一性に関する知識の可能性を断言することになるからである。そのような立場をとるどんな政治的必要性があるにせよ、また、主体としての他者を「特定する」/他者と「同一化する」試みにどんな利点があるにせよ、知とは、同一性によってではなく、還元不可能な差異によって支持され、可能となる。知の対象は、常に知識の量をうわまわっている。つまり知識は、その対象に比して決してじゅうぶんではあり得ないのだ。…実践――副次的なものの同一性を主張する必要――と理論――知識の生産のどのような計画も、起源としての同一性を前提とすることはできない――の間の関係は、執拗にお互いを危機へと追い込む「妨害」の関係なのだ。
ガヤトリ・C・スピヴァック『文化としての他者』


ここで使われている「副次的」という語は、サバルタンという語の訳で、別の箇所では、従属的、服属的などと訳される語です。わかりやすさのために、被差別者、と読み替えてもらってかまいません。

(もともとアントニオ・グラムシというイタリアのマルクス主義者が、獄中で検閲から逃れるために、マルクス主義を一元論、プロレタリアンをサバルタンと書いたところからきているようです。)

ここで彼女が述べているのは、知の対象は知られるもの、つまり、知識より常に量的に多い以上、全体を把握することができない、つまり、対象を「ひとつのもの」として指し示すのは、根本的に不可能だということであり、そうであるがゆえに、自らを「主体」というひとつのものとして前提する実践と、理論は矛盾し、理論において当事者性の優位などはありえない、ということです。むしろ、知とはその外部、知り得ないものの存在によって可能になるということです。そしてここでは述べていませんが、ここから実践としてのジェンダー平等主義における、主体化を支持しつつ、そこから逃れていく客体性・他者性をも、両者の矛盾を意識しつつ、肯定しなければならない、と彼女は考えているのだ、と私は解釈します。そして、この他者つまり、他の、異なるものを肯定する力こそがフェミニズムの可能性なのだ、と私は考えます。


主体化しきれない残余=他者性へのまなざし

最後に、テーマから少し外れますが、スピヴァックフェミニズムの可能性としたものは、学問一般に当てはまるのではないか、と大澤真幸の議論をもとに考えます。

大澤は社会学とは「巫女の視点に立つこと」ではないか、と柳田國男の「遠野物語」を参照しながら論じています。彼が引いているのは次の箇所です。 

土淵村(遠野郷にある十ヶ村のひとつ)栃内の久保の観音は馬頭観音である。その像を近所の子供らが持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇に乗ったりして遊んでいたのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いてみたところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわったというので、詫び言をしてやっと病気がよくなった。

ここで大澤は、別当が病に倒れるのはなぜか?という問いを立て、そこに言語の水準と身体の水準のずれを見出します。別当は、言語の水準では「観音像をなれなれしく扱ったり、粗末にしてはならない」という規範の支配下にあるが、同時に身体の水準では「観音様も楽しく遊びたいはずだ」「観音様と親しく交わっても良いはずだ」と感じている、と指摘します。
そして、病は身体の他者性として現れ、この「他者性」を見抜くまなざしこそが巫女の視点であり、巫女にそれが可能なのは、異界と現実界のあわい、つまりどちらにとっても他者たる領域に身をおいているからです。そして、この視点の獲得が、社会学すること、だというわけです。

他者について考えるという営みは、別の世界に身を置いてみることだと思います。長々と引用したスピヴァックの『文化としての他者』という本の原題は、『In Other Worlds』。これを『〈フェミニン〉の哲学』の著者である、後藤浩子は、『別の諸世界に立ってみること』と訳しています。この表題のためのひとつの技法としてフェミニズムは考えられています。そして、そこにこそフェミニズムの可能性はあるのではないか、と仮説を提示して私の発表を終わりにしたいと思います。


参考文献
江原由美子 金井淑子編 『フェミニズムの名著50』 平凡社 2002年 
後藤浩子 『〈フェミニン〉の哲学』 青土社 2006年
伊藤公雄 『〈男らしさ〉のゆくえ―男性文化の文化社会学―』 新曜社 1993年 
岩波講座 現代社会学11 『ジェンダー社会学』 岩波書店 1995年 
加藤秀一 『性現象論―差異とセクシュアリティ社会学―』 勁草書房 1998年 
河口和也 『クイア・スタディーズ』 岩波書店 2003年 
大澤真幸 『ナショナリズムの由来』 講談社 2007年 
大澤真幸編 『社会学のすすめ』 筑摩書房 1996年
佐倉智美 『性同一性障害社会学』 現代書館 2006年
スパーゴ,T 吉村育子訳『フーコーとクイア理論』 岩波書店 2004年 
スピヴァック,G・C 鈴木聡ほか訳 『文化としての他者』 紀伊国屋書店 2000年
上野千鶴子 『差異の政治学』 岩波書店 2002年
上野千鶴子 中西正司 『当事者主権』 岩波新書 2003年